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2022年7月31日主日礼拝
「らくだが針の穴を通る」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 19章13~30節

【ネットは <Youtube>】  永遠の命を求めて、主イエスのもとに一人の青年が来ました。ここで求めている永遠の命について、ある人は、聖書の語る死後の話ではなく、今生きている手応えを求めている言葉だろうと言っています。自分の人生はこれで良いと思える手応えであり、またそうでない今の自分の抱える不安からの解放です。この青年は、自分には安定した生活、信仰、知恵が与えあれている。けれども、自分の人生には何かが足りない、そう思っていたのでしょう。   「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。」 全財産を献げてしまう。そうすれば、に富を積むことになる。そして私に従いなさい。 これを聞いて、青年は立ち去りました。握っているもの全て手放しなさいと言われたのです。   二人の会話にはズレがあります。青年は、 「永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいのでしょうか。」 と尋ねます。 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいなら、掟を守りなさい。」 。何をしようか、どう生きようか、自分で解決しなくてはならないという考えをやめなさいということです。青年は、自分が行う 「善いこと」 によって、永遠の命を得られるようになると思っていました。青年の言葉の裏には、どれだけのことをすれば神は私の願いを聞いてくれるだろうか。これだけやったのだから、私にきっと見返りがある。そういうことだと思います。主に従うことで、あなたにその善い方を見せようと言われるのです。けれども、青年は主イエスに従うことはできなかった。従う事は自分の考えを脇に置くこと、自分の物差しを捨てることです。青年にとって財産は自分の幸せを測る物差しだったのです。   「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。」 。この言葉を聞いた弟子たちは予想外の主イエスの言葉に、 「それでは、だれが救われることができるのだろう」 と言います。   「掟」 はモーセの十戒の後半の教えです。十戒の前文は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」です。第一戒は「わたしをおいてほかに神があってはならない。」。前半はただ一人の神を神として尊ぶため、偶像を拝まず、安息日を守り、礼拝の生活をする。...

2022年7月24日主日礼拝
「欠けだらけでも、受け止める器」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 19章1~12節

【ネットは <Youtube>】   「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」 。ファリサイ派の人が、主イエスを試そうとして聞きました。 「何か理由があれば」 。どういう理由があれば、離縁が許されるのか。ここで問題となっているのは旧約聖書に記される律法のことです。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻には何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。  主イエスのお答えは、 「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。」 。神が男と女を創造され「人が父母を離れて女と結ばれて一体となる。」(創世記2:42)。結婚はこの神の意志に基づくものであり、夫婦は神が合わせられたものであり、人間が離してならないと、主イエスは離婚を否定されました。これは、単に離婚の是非だけが問題なのではありません。その根本には、「なぜ今この人と共にあるのか」ということについて語られているのです。それは神がそのように命じられているからなのです。   「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」 。主イエスのお答えは、 「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」 。確かにモーセは離婚を認めました。創世記の言葉と相反することが書かれています。それは人の 「心が頑固なので」 。それで離縁が許されたのだというのです。しかし、離縁は 「許した」 のであって、決して権利として主張されることではありません。モーセが離縁状を渡して離縁しなくてはならないと命じているのは、男性の横暴などにより、理由なき離婚を防ぐためです。離縁状も無く離縁された女性が他の男性と生活を始めようとすれば、姦通の罪とされてしまいます。この律法により女性の立場が守られました。この律法は、離縁する場合には書面にその理由を記して、誰にでも申し開きのできる理由がなければしてはならないのです。   「神が結び合わせた者を、人は離してはならない。」。この言葉のおかげでなんとか結婚生活を続けてこられた、という人もいるでしょう。或いは、「この言葉があるにも関わらず」という思いを経験するかもしれません。この言葉...

2022年7月17日主日礼拝
「ゆだねられた務め」藤掛順一先生(横浜指路教会)
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章1~15節

【ネットは <Youtube>】   「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」 。パウロが委ねられている 「この務め」 とは、主イエス・キリストの使徒としての、福音伝道者としての務めです。それを受け継ぐのが牧師の務めですから、ここは牧師就任式が行われる礼拝に相応しい箇所です。   パウロは、主の憐れみによってこの務めを委ねられているので「落胆しません」と語っています。そして 「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」 とあります。牧師が落胆せずに務めを果たすとはどういうことかがここに語られているのです。その中心は 「神の言葉を曲げず」 ということです。神の言葉を人間の都合や主張によってねじ曲げてしまう罪に陥らずに、それを曲げずにまっすぐに語ることが牧師の務めであり、そのことを落胆せずに続けていくことが求められているのです。そのためには、 「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」 ることが必要です。それは、人の前で、人の目や評価を意識しながら生きまた語るのではなく、神の御前で、神のまなざしの中で生きまた語ることです。牧師が神の言葉を曲げてしまうのは、教会員の顔色を伺ってしまうからです。牧師が 「神の言葉を曲げず」 に語ることは、牧師と教会員の協力の中でこそ実現します。教会員が自分の聞きたい言葉を語ることを牧師に求め、牧師が教会員の顔色を伺うようになったら、神の言葉は曲げられてしましいます。そこでは神による救いは起こらず、福音の伝道が前進しません。しかし牧師が神の言葉を曲げずに語り、教会員がそのことを期待して牧師のために祈っているなら、この教会の礼拝において 「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」 が示され、それを受け入れず、信じようとしない人々は心の目を曇らされており、滅びの道をたどっている、ということになるのです。礼拝において神の言葉が曲げられることなく語られているなら、そのみ言葉にはこのような権威が伴うのです。 「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」 。神の...

2022年7月10日主日礼拝
「自由になるための赦し」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 18章21~35節

【ネットは <Youtube>】  18章の共同体への教えの話の締めくくりとして「仲間を赦さない家来のたとえ」と呼ばれる話を聞きました。教会共同体の中で、またこの礼拝から押し出されて、それぞれの生活の場所へと遣わされていった先で、私たちがどのように、人と関係を結んでいくのかを問われています。  「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。そのお答えは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」。数で言えば490回。私たちは、相手が何か間違えた時、赦すということを考える時、「我慢すること」や「注意を促す」ことで、怒らない。怒りを持たないようにすることで、「赦さない!」と思うこととは違うと考えると思います。しかし、主イエスが言われた「赦す」は、「我慢」とは違います。490回赦すというのは、もう数えず、されたことは忘れてしまいなさいと言われているのです。   人と会う約束をして、準備をしていったのになかなか来ない。連絡もなく、そのまま会えなかった。その後、忘れていたと電話が入った。1度は赦せるても、同じことが2度3度とあったら「もう、あの人とは会うのはやめよう」と距離をとり、連絡をとらなくなるかもしれません。主が言われた「赦す」は、されたことを数えず、以前のことは忘れてしまいなさいと言うのですから、もう一度その人と同じ約束をする。そういうことを言われているのです。   たとえを主は話されました。家来たちに貸した金を決済する王の話です。最初に呼びだされた家来には1万タラントンの貸しがありました。約6000億円。生涯かけて働いても返せない額です。しかし、王は家来がしきりに願う姿を憐れに思い、彼を赦し、借金を帳消しにしました。王は筋を通すことよりも、もっと大切なことを選んだのです。王は帳簿を破り捨ててでも、家来と一緒に生きていくことを望んだのです。家来は恩を返しながら生きていくことができましたが、そうはしなかった。彼はその帰り道に百デナリオン貸していた仲間に出会います。約100万円。そして取り立てをしました。100万円も大金です。しかし、今、6000億円を赦されたばかりでした。仲間はひれ伏して「どうか、待ってください。」と、家来が王の前で言ったのと同じ言葉で願い出ましたが、捕らえら...

2022年7月3日主日礼拝
「共に進むために」石丸 泰信先生
マタイによる福音書 18章15~20節

【ネットは <Youtube>】  教会は十字架を掲げます。それは、わたしたちには救いが必要、赦しが必要というしるしです。わたしは間違えないし、罪人ではないというのであれば十字架は要りません。けれども、わたしたちは間違える存在です。だからこそ、その時にどうすれば良いかが、ここに書いてあります。   「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、言って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」 と言います。この 「忠告」 するの原意は「明るみに出す」、「光を当てる」。つまり、神の光に当てるということです。本人が気にも留めずに、まあ良いかと思っていることに神のスポットライトを当ててみる。それは、そこに神の悲しみがあることに気がつくためです。主イエスは、その 「忠告」 が聞き入れられるために、一人ではダメならば 「ほかに一人か二人一緒に」 、それでもダメなら 「教会に申し出なさい」 と言われます。段々とエスカレートしています。けれども主旨は変わっていません。 「兄弟を得るため」 です。反対に言えば、兄弟を失わないためです。直前に「迷い出た羊のたとえ」がありました。その文脈でここは読まれなければいけません。神の悲しみは、その人が、これで良いと思ったままで、いつの間にか、迷い出てしまうことです。「そっちに行ってはいけない」。だから、忠告するのです。「これ以上は危ない」。だから、聞き入れてもらうのです。   同様の言葉が旧約にも既にあります。 「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。…復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」 (レビ記19:17-18)。ここでの「戒めなさい」が 「忠告」 と同じ言葉です。どうして戒めるのか。「心の中で…憎んではならないから」、「復讐してはならないから」…です。ここを読むと、迷い出てしまうのは罪を犯した人だけではないことが分かります。罪を犯されてしまった「わたし」の為にも言われています。憎しみ、復讐、恨み。そこにあなたが迷い出て行かないために忠告しなさい。それを通して再び、愛することが出来るようになりなさい、と。聖書は忠告する際、恨みを伴っていてはダメだと言います。忠告する理由は、これからも共に歩んでいくため。...

2022年6月26日主日礼拝
「迷子を探し回る神」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 18章10~14節

【ネットは <Youtube>】  主イエスのたとえ話を聞きました。絵画も多くあり、主イエスと羊が豊かな緑の中にいる絵や、羊を抱えておられる主イエスの情景が浮かぶようです。迷い出た1匹を探しに行く、羊飼いと羊の良い信頼関係が伺えるような思いがします。けれども、実際は牧草や水の乏しい地方でした。緑が一面に広がっているのではなく、岩場に僅かな草を見つけるのです。そのような、草が生え、水辺があり得るところには猛獣も来ます。牧者は警戒しながら水辺を探し、羊を導きます。その導きがなければ、羊は谷間に落ちたり、猛獣に狙われる危険がありました。また、羊飼いはたいていの場合、他の人が所有者で、羊を預かっているのです。お金持ちの所有する羊を預り、育て、それで賃金を得ていました。自分の報酬に関わりましたので、羊飼いたちは皆羊を大切にします。しかし、それでも所詮、他の人の所有なので、命を懸けてまで守ろうとしません。羊飼いには命を懸けるほどの責任は負わされていないのです。   マタイ福音書に記される羊と羊飼いの話は「迷い出た」と記されます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気を付けなさい。」という前置きがあって語られています。18章は教会に向けられて語られ、そこには「小さな者」というキーワードがありました。教会の中で、また教会に集う人々が、人との関わりの中で、隣人に接するときのこととして語られているのです。 隣人と接する時「軽んじてはいけない。」。また、その人を軽んじる時、一人一人に天使がいて、その天使をも軽んじることになりますし、「小さな者」など神の前にはおらず、私たちが「小さく扱う者」のことを言っているのです。そのことを忘れてはいけないという警告のよう語られます。   迷い出た一匹の羊は、神から離れ、群れから出たものです。迷い出た羊ですから、迷子なのです。先に語られていた「子供」(18:3-5)として捉えるならば、迷子は致命的です。教会に向けられて語られているという点から見れば、教会を出て、神の元を離れ、迷子なのです。本来いるべきところに居ないのです。神から離れていることを聖書は罪といいます。罪人の状態で、平安もないのです。迷い出て、孤独の羊。本来いるべき場所から離れているとき、自分らしさを模索するでしょう。迷い出た羊には、そういう小ささがあるのだ...

2022年6月19日主日礼拝
「放ってはおけない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 18章6~9節

【ネットは <Youtube>】  マタイの18章は教会の教えが記されています。それは、共同体についてであり、教会生活の手引きとも言えるでしょう。18章の教会の教え、手引きの第一は、「心を入れ替えて、子供のようにならなければ…天の国に入ることはできない。」(18:3-)でした。心を入れ替えるとは、悔い改めることであり、これまで自分自身の心の声に耳を傾けて生きてきたことから、視線を、また体全体を神の方へと向き直って生きることです。  しかし、それを「子供のように」と言われます。それは、新しく生まれ変わらなければ、子供のようにはできないだろうと思います。主イエスを信じ、洗礼により、新しく生まれ、新しい命に生きる者となりなさいと言われているのでしょう。 6節からは、「子供」ではなく、「小さな者」と言われています。それは、私たちが評価していないもの。存在の小さなもの。偉いと思っていない存在でしょう。相手を小さく見るとき、私たち自身の存在が大きくなっているのだと思います。そして、相手は、無くても良い、取るに足らない存在となっているのです。そこには、他者への見方を間違えている姿が映し出されます。私自身が裁く者、評価する者になってしまっているのです。その結果、「小さな者の一人をつまずかせる」。そのことに気が付きなさいと言うのです。  厳しい、警告です。「わたしを信じる者の一人」をつまずかせることへの警告の言葉です。 「つまずく」とは、主イエスを信じる信仰から逸れていってしまうことです。また、人の信仰の妨げとなってしまうことについても言われています。人を信仰から引き離す原因を作ってしまうことの災いが語られています。  「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。「深い海」は、ユダヤ人にとって、神から最も遠く、離れており、荒廃した恐るべきところでした。「地獄」は神との断絶です。旧約聖書のヨナ書では、海の底に沈むヨナは「陰府の底から、助けを求めると」(2:3)と記されています。ヨハネの黙示録では、救いの完成である新天新地について、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21:1)とあります。天の国とは海のないところであるようです。深い海に沈められるというのは、天の国とは真逆の所へ向かうのです...

2022年6月12日合同礼拝
「天の国でいちばん偉い者」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 18章1~5節

【ネットは <Youtube>】  合同礼拝を捧げています。6月の第2主日は、教会の暦で「花の日・子どもの日」と定め、多くの教会で、合同礼拝を捧げています。私たちも、教会学校の子どもたちと大人と一緒に礼拝を捧げています。子どもたちを招き、囲い、礼拝しています。  「子どもの日」と定めを持つ記念をするほどに、子どもたちを招くことの難しい時代がありました。教会がそのように定め、子どもの日礼拝を大切に覚えるのは、主イエスのお示しになったことが形となったからでしょう。  主イエスは子どもを大人の所有物となさらない方でした。弟子たちが主イエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。』 「子供のようにならなければ」。このことの指すのはどういう意味かと様々に問われてきました。純粋とか、懸命など、私たちの思う子供の姿もあるでしょう。けれども、そうしたイメージの子供を大人が受け入れてあげるのだ、という話ではありません。  子どもはどんな存在なのか。子どもの性格は様々ですが、必ず言えることは、助けてもらわなければ生きられない存在です。社会では、大人というのは自立した存在だと言えるでしょう。子どもはそうではありません。自立できません。必ず人の助けがなければ成長できません。人の助けなく、大人になった人はいないはずです。 「子供のようにならなければ」。それは、人に助けてもらう存在なのだということを知ることです。けれども、それは大人も同じです。ましてや、社会的な助けではなく、天の国では、神の助けなしには入ることすらできないのです。 子どものようになる人が、主イエスを受け入れることができるのです。主イエスの助け無く、神を知り、天の国に近づくことはできません。 私たちは、自分の罪にも気づかないでいます。知らぬ間に、主イエスがその罪を担ってくださっていたということ、主イエスの命のあがないを後から知ったのです。 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」 「大人なんだから、頼らない様にしよう」。「大人...