2022年7月31日主日礼拝
「らくだが針の穴を通る」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 19章13~30節

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 永遠の命を求めて、主イエスのもとに一人の青年が来ました。ここで求めている永遠の命について、ある人は、聖書の語る死後の話ではなく、今生きている手応えを求めている言葉だろうと言っています。自分の人生はこれで良いと思える手応えであり、またそうでない今の自分の抱える不安からの解放です。この青年は、自分には安定した生活、信仰、知恵が与えあれている。けれども、自分の人生には何かが足りない、そう思っていたのでしょう。

 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。」全財産を献げてしまう。そうすれば、に富を積むことになる。そして私に従いなさい。 これを聞いて、青年は立ち去りました。握っているもの全て手放しなさいと言われたのです。

  二人の会話にはズレがあります。青年は、「永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねます。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいなら、掟を守りなさい。」。何をしようか、どう生きようか、自分で解決しなくてはならないという考えをやめなさいということです。青年は、自分が行う「善いこと」によって、永遠の命を得られるようになると思っていました。青年の言葉の裏には、どれだけのことをすれば神は私の願いを聞いてくれるだろうか。これだけやったのだから、私にきっと見返りがある。そういうことだと思います。主に従うことで、あなたにその善い方を見せようと言われるのです。けれども、青年は主イエスに従うことはできなかった。従う事は自分の考えを脇に置くこと、自分の物差しを捨てることです。青年にとって財産は自分の幸せを測る物差しだったのです。 

 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。」。この言葉を聞いた弟子たちは予想外の主イエスの言葉に、「それでは、だれが救われることができるのだろう」と言います。

 「掟」はモーセの十戒の後半の教えです。十戒の前文は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」です。第一戒は「わたしをおいてほかに神があってはならない。」。前半はただ一人の神を神として尊ぶため、偶像を拝まず、安息日を守り、礼拝の生活をする。それを求める戒めです。「施しなさい」は十戒の後半を言い換えているだけで神との関係の中でするのです。青年が「守ってきた」のは形骸化した掟です。主イエスは新しいことを求めたのではなく、実践するために言いかえたのです。 青年は子供のころから守ってきたかもしれないが、結局は意味が分かっておらず、何一つやっていなかったのと同じでした。そして掟を守ることは、自分の出来高に関わるものであり、神の国に入るにふさわしいかどうかがそこで測られてしまうものになっていたのです。

  ペトロはその後、「何をいただけるのでしょうか?」と問います。報酬のことを考えているのです。主に従ってきた結果として報酬がもらえるかどうか、ではないのです。そのように考えている者に、神の国は程遠いものなのです。

  「金持ちの青年」の話と「子供を祝福する」話は切り離さずに同時に読むように並べ得て記されています。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」。子どもは外にいなさい。主イエスの近くに来る価値、資格がない、ふさわしくないと弟子たちは思っていたのでしょう。けれども、主イエスは小さな、何も持っていない、両手放しで主イエスに近づいてくる子供たちを祝福し、天の国を約束されたのです。 

 「神は何でもできる」。乏しい者でも、富んだものでも、神は救おうと思う者は皆救うことができるお方です。。「神は何でもできる」。針の穴にらくだを通すこともできるのです。けれども、通るためにらくだが小さくなるのではありません。やはり、通ることなど不可能なサイズです。針の穴はらくだを通すために避けて壊れるでしょう。針の穴は主イエスなのです。キリストが十字架に貼り付けにされたのは、らくだを通すためなのです。神の子が死ぬという方法を選ばれたのです。命の代償無くしては、神との関係修復はできないほどに大きな罪があるからです。
 通れるはずのない者が、天の国へと通して頂くため、「ありえない」と思っていた、らくだが針の穴を通らせてもらっていたのです。