2022年7月17日主日礼拝
「ゆだねられた務め」藤掛順一先生(横浜指路教会)
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章1~15節

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 「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」。パウロが委ねられている「この務め」とは、主イエス・キリストの使徒としての、福音伝道者としての務めです。それを受け継ぐのが牧師の務めですから、ここは牧師就任式が行われる礼拝に相応しい箇所です。

  パウロは、主の憐れみによってこの務めを委ねられているので「落胆しません」と語っています。そして「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」とあります。牧師が落胆せずに務めを果たすとはどういうことかがここに語られているのです。その中心は「神の言葉を曲げず」ということです。神の言葉を人間の都合や主張によってねじ曲げてしまう罪に陥らずに、それを曲げずにまっすぐに語ることが牧師の務めであり、そのことを落胆せずに続けていくことが求められているのです。そのためには、「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」ることが必要です。それは、人の前で、人の目や評価を意識しながら生きまた語るのではなく、神の御前で、神のまなざしの中で生きまた語ることです。牧師が神の言葉を曲げてしまうのは、教会員の顔色を伺ってしまうからです。牧師が「神の言葉を曲げず」に語ることは、牧師と教会員の協力の中でこそ実現します。教会員が自分の聞きたい言葉を語ることを牧師に求め、牧師が教会員の顔色を伺うようになったら、神の言葉は曲げられてしましいます。そこでは神による救いは起こらず、福音の伝道が前進しません。しかし牧師が神の言葉を曲げずに語り、教会員がそのことを期待して牧師のために祈っているなら、この教会の礼拝において「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」が示され、それを受け入れず、信じようとしない人々は心の目を曇らされており、滅びの道をたどっている、ということになるのです。礼拝において神の言葉が曲げられることなく語られているなら、そのみ言葉にはこのような権威が伴うのです。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」。神の言葉を曲げずに語るとは、「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝える」ことです。主であるイエス・キリストを宣べ伝える言葉にこそ権威が伴うのです。そしてキリストを宣べ伝える牧師は、「イエスのためにあなたがたに仕える僕」となります。何故なら主イエスご自身が、私たちの僕となって仕えて下さったことによって救いを与えて下さったからです。その主イエスを宣べ伝える牧師は、教会員に仕える者となるのです。しかしそれは、牧師は教会員の僕で教会員が主人だということではありません。教会の主人は教会員ではなくて、主イエス・キリストです。牧師は、教会員が、教会の主であるイエス・キリストの僕として生きるために、教会員に仕えるのです。

 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。土の器とは、みすぼらしく壊れやすい器です。牧師自身は土の器に過ぎません。その土の器に、福音という宝が、また福音を宣べ伝える務めという宝が主によって注がれているのです。それが「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」ということです。憐れみを受けた者としてとは、自分の実力によるのではない、ということです。7節にも「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」とあります。牧師がその務めを果たすことができるのは、神の並外れて偉大な力によるのであって、自分の能力によることではありません。そのことをしっかりと弁えている牧師は「落胆しない」のです。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」のです。

 「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。パウロは伝道の歩みの中で多くの苦しみや試練を受けました。その後に続く牧師が味わう苦しみは、イエスの死を体にまとい、イエスのために死にさらされている、つまり主イエスの十字架の死の苦しみにあずかる体験です。しかしそこにこそ、イエスの命、復活の命が現れるのです。だから「落胆しない」のです。自分の力や工夫や才覚によって歩もうとしている間は、落胆し、行き詰まり、失望し、見捨てられ、滅ぼされるしかありません。しかし主イエスの僕として、イエスのために死にさらされている者は、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れることを体験していくことができるのです。「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」。わかりにくい言葉ですが、パウロが教会の人々を思って語っている言葉としてはよく理解できます。主イエスご自身がそうして下さったように、自分には死が働くことによって人々には命が働く、その主イエスの救いのみ業に仕えるのが牧師です。牧師が神のまなざしの前で生き、自分自身ではなく主イエス・キリストを宣べ伝え、教会員に仕える僕として、キリストの死を体にまとって歩むことによって、教会員の内に命が働き、皆が主イエスの復活の命にあずかって、キリストの体である教会が築かれていくのです。

 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」。世の終わりにおける救いの完成を告げるこの福音をこそ、牧師が曲げることなく語り、教会員がこの福音によって生かされることを祈り求めていくなら、「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」ということが実現していくのです。