2022年7月3日主日礼拝
「共に進むために」石丸 泰信先生
マタイによる福音書 18章15~20節

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 教会は十字架を掲げます。それは、わたしたちには救いが必要、赦しが必要というしるしです。わたしは間違えないし、罪人ではないというのであれば十字架は要りません。けれども、わたしたちは間違える存在です。だからこそ、その時にどうすれば良いかが、ここに書いてあります。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、言って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言います。この「忠告」するの原意は「明るみに出す」、「光を当てる」。つまり、神の光に当てるということです。本人が気にも留めずに、まあ良いかと思っていることに神のスポットライトを当ててみる。それは、そこに神の悲しみがあることに気がつくためです。主イエスは、その「忠告」が聞き入れられるために、一人ではダメならば「ほかに一人か二人一緒に」、それでもダメなら「教会に申し出なさい」と言われます。段々とエスカレートしています。けれども主旨は変わっていません。「兄弟を得るため」です。反対に言えば、兄弟を失わないためです。直前に「迷い出た羊のたとえ」がありました。その文脈でここは読まれなければいけません。神の悲しみは、その人が、これで良いと思ったままで、いつの間にか、迷い出てしまうことです。「そっちに行ってはいけない」。だから、忠告するのです。「これ以上は危ない」。だから、聞き入れてもらうのです。 

 同様の言葉が旧約にも既にあります。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。…復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:17-18)。ここでの「戒めなさい」が「忠告」と同じ言葉です。どうして戒めるのか。「心の中で…憎んではならないから」、「復讐してはならないから」…です。ここを読むと、迷い出てしまうのは罪を犯した人だけではないことが分かります。罪を犯されてしまった「わたし」の為にも言われています。憎しみ、復讐、恨み。そこにあなたが迷い出て行かないために忠告しなさい。それを通して再び、愛することが出来るようになりなさい、と。聖書は忠告する際、恨みを伴っていてはダメだと言います。忠告する理由は、これからも共に歩んでいくため。それだけだからです。だから、一人では難しければ、2,3人で祈りつつ、それでも憎しみが消えなければ、教会の祈りの中で、です。 

 しかし、こう続きます。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。諦めなければならない時があることを示唆する言葉に聞こえます。けれども、福音書が描く主イエスの姿を振り返ると、異邦人や徴税人とどのように過ごしてきたか。主は、出かけて行って彼らの家を訪ね、一緒に食事をされました。そうであれば、この言葉は諦めの言葉ではなく、「迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」(18:12)と同義です。もう一回、関係を始め直しなさいということです。どうしてか。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われています。つまり、今のこの共同体の関係は、この世での関係で終わるのではなく、天の国、つまり永遠に続く。だからこそ、簡単に諦めてしまうのではなく、もう一度です。主が、なぜ、あんなにも地上で慌ただしくされていたのかがよく分かります。それを今、主イエスは教会、つまり、わたしたちに任せられたのです。 

 けれども、わたしたちだけで担っているわけではありません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉がありますが、元の聖書の言葉では、文頭に「なぜなら」という言葉が付いています。それを踏まえて読むと、この段落の全部の節それぞれに掛けて読むことが出来ます。つまり、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。なぜなら、二人または三人が私の名によって集まるところには私もその中にいるからである」と。つまり、あなたが忠告しに行くところ、すなわち、愛を持ってその人を捜し出しに行くところ、そこにわたしも居るということです。地上のことは、わたしたちに任されています。けれども、主も一緒なのです。 

 ある人は「二人乗りのボート」に喩えます。一人で漕げるボートではなく、もう少し大きいボート。一人が右、もう一人が左のオールを担当するボートです。主と共に歩むとは、このボートを漕ぐということです。わたしが繋いでも、あなたが繋がないなら、うまく結ぶことは出来ない。片方が探しに出かけて行っても、あなたが行かないなら見つけ出すことはできない。主と息を合わせるとき、初めてまっすぐ進むのです。そして、同じイメージで「あなたに対して罪を犯した」人の事が言われています。あなたが片方、そして、その人が、もう片方のオールを持っているのです。一緒に乗っているからです。わたしたちは自分が正しいと思うとき、自分も誰かに赦されて、探し出されて今があるということを忘れてしまいます。だから相手にだけスポットライトを当てようとします。けれども神の光はいつもわたしにも当たっているのです。それに気がついて、相手に対して、憎しみからではなく愛を持って言葉を尽くすことができたとき、きっと言葉が変わります。そして、相手も聞き入れる準備が整うのだと思います。