2022年6月19日主日礼拝
「放ってはおけない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 18章6~9節

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 マタイの18章は教会の教えが記されています。それは、共同体についてであり、教会生活の手引きとも言えるでしょう。18章の教会の教え、手引きの第一は、「心を入れ替えて、子供のようにならなければ…天の国に入ることはできない。」(18:3-)でした。心を入れ替えるとは、悔い改めることであり、これまで自分自身の心の声に耳を傾けて生きてきたことから、視線を、また体全体を神の方へと向き直って生きることです。

 しかし、それを「子供のように」と言われます。それは、新しく生まれ変わらなければ、子供のようにはできないだろうと思います。主イエスを信じ、洗礼により、新しく生まれ、新しい命に生きる者となりなさいと言われているのでしょう。 6節からは、「子供」ではなく、「小さな者」と言われています。それは、私たちが評価していないもの。存在の小さなもの。偉いと思っていない存在でしょう。相手を小さく見るとき、私たち自身の存在が大きくなっているのだと思います。そして、相手は、無くても良い、取るに足らない存在となっているのです。そこには、他者への見方を間違えている姿が映し出されます。私自身が裁く者、評価する者になってしまっているのです。その結果、「小さな者の一人をつまずかせる」。そのことに気が付きなさいと言うのです。

 厳しい、警告です。「わたしを信じる者の一人」をつまずかせることへの警告の言葉です。 「つまずく」とは、主イエスを信じる信仰から逸れていってしまうことです。また、人の信仰の妨げとなってしまうことについても言われています。人を信仰から引き離す原因を作ってしまうことの災いが語られています。

 「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。「深い海」は、ユダヤ人にとって、神から最も遠く、離れており、荒廃した恐るべきところでした。「地獄」は神との断絶です。旧約聖書のヨナ書では、海の底に沈むヨナは「陰府の底から、助けを求めると」(2:3)と記されています。ヨハネの黙示録では、救いの完成である新天新地について、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21:1)とあります。天の国とは海のないところであるようです。深い海に沈められるというのは、天の国とは真逆の所へ向かうのです。そのような神との関係から断絶されるような原因があるのならば、断ち切りなさいと言われる。それほどに厳しい警告であり、同時に、必死の思いの言葉なのです。私たちが滅んでしまうようなことから、自らの命を捨ててでも私たちを救おうとしてくださる主イエスだからこそ、語ることのできる言葉なのです。 

 先日、葬儀をした方のご遺族に、病気で体力が落ちてからの様子を伺いました。その方は、生きることに執着していたと言います。「生きて、働くことしか考えていなかったと思う」と話していました。6月に入り、体力が落ち、起き上がれない時があったそうです。その時も、「栄養が足りていないのだ」と原因を考え、そのために栄養のあるものを食べよう。と、どうしたらよいかを常に考えていたそうです。自分のすべき仕事、使命のために、生きるために、どうすべきかをいつも考えていたのです。もし身体の中に病が見つかったら、多くの人が病院に行きます。そして切ったら命が助かるというのであれば、「切ってください」と言うと思います。その方も、そうして手術をしました。命の方が大事だからです。 とても大袈裟なことのようですが、「所詮」と、小さなこと、こんなことくらい、と 私たちが感じ、片付けてしまうような所に、もう、罪の芽が存在しているのです。

  キリストは、地獄を味わわれた方です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。十字架の上で叫ばれたこの姿は、神に捨てられた姿です。神から見捨てられ、神との断絶である地獄を、身を挺して受けられた。それゆえに私たちは赦され、もう見捨てられることはないと約束してくださいます。 主イエスの大きさ、キリストの命の重みに気づいた時、私自身の罪を負われたキリストの思いに触れた時、滅びるはずの自分が、神の目に留められ、愛されていることに気づく時となるでしょう。切ったら命は助かると言われた時、「切ってでも、助けてほしい」と言うのと同じように、同じ思いで神はご覧になっています。