2022年6月26日主日礼拝
「迷子を探し回る神」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 18章10~14節

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 主イエスのたとえ話を聞きました。絵画も多くあり、主イエスと羊が豊かな緑の中にいる絵や、羊を抱えておられる主イエスの情景が浮かぶようです。迷い出た1匹を探しに行く、羊飼いと羊の良い信頼関係が伺えるような思いがします。けれども、実際は牧草や水の乏しい地方でした。緑が一面に広がっているのではなく、岩場に僅かな草を見つけるのです。そのような、草が生え、水辺があり得るところには猛獣も来ます。牧者は警戒しながら水辺を探し、羊を導きます。その導きがなければ、羊は谷間に落ちたり、猛獣に狙われる危険がありました。また、羊飼いはたいていの場合、他の人が所有者で、羊を預かっているのです。お金持ちの所有する羊を預り、育て、それで賃金を得ていました。自分の報酬に関わりましたので、羊飼いたちは皆羊を大切にします。しかし、それでも所詮、他の人の所有なので、命を懸けてまで守ろうとしません。羊飼いには命を懸けるほどの責任は負わされていないのです。 

 マタイ福音書に記される羊と羊飼いの話は「迷い出た」と記されます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気を付けなさい。」という前置きがあって語られています。18章は教会に向けられて語られ、そこには「小さな者」というキーワードがありました。教会の中で、また教会に集う人々が、人との関わりの中で、隣人に接するときのこととして語られているのです。 隣人と接する時「軽んじてはいけない。」。また、その人を軽んじる時、一人一人に天使がいて、その天使をも軽んじることになりますし、「小さな者」など神の前にはおらず、私たちが「小さく扱う者」のことを言っているのです。そのことを忘れてはいけないという警告のよう語られます。 

 迷い出た一匹の羊は、神から離れ、群れから出たものです。迷い出た羊ですから、迷子なのです。先に語られていた「子供」(18:3-5)として捉えるならば、迷子は致命的です。教会に向けられて語られているという点から見れば、教会を出て、神の元を離れ、迷子なのです。本来いるべきところに居ないのです。神から離れていることを聖書は罪といいます。罪人の状態で、平安もないのです。迷い出て、孤独の羊。本来いるべき場所から離れているとき、自分らしさを模索するでしょう。迷い出た羊には、そういう小ささがあるのだと思います。また、迷い出た羊は、草原をふらふらと歩いているのではなく、草の少ない地域で、草を見つけても、周りは崖で、その谷間に落ちると、身動きがとれなくなるようなところにいます。

 そのような状態で、自分の歩み、人との接し方、生き方に確信がもてるとは、言い難く、人生の意味も感じられなくなるかもしれません。しかし、群れから迷い出た者を、軽んじてはいけません。神は、心にかけて探しているのです。

  最近、教会に来るようになった方々には、長く気になっていたけど「ようやく敷居をまたいで来ることができました」という人や、昔教会や学校の礼拝に出ていた。それで「懐かしさと親しみを覚えて教会に来た」という人もいます。学校から勧められたことがきっかけになる人もいます。関心がある人や、きっかけがあって教会に皆来ているのだと思うことが多いでしょう。しかし、私たちが興味を持ったからでも、キリスト教について学びたいからというようなことで教会に来るのではありません。迷い出た羊は、神から離れ、神に関心など持っていなかったのです。しかし、神はその人に関心を持ち、思いをその人に向けているのだと主イエスは言われます。教会は、神に興味を持ってもらった人が集まっているところなのです。そのようにして、神に探され、見つけ出された人々がここに集まっています。私たちは、神から関心を注がれているということを知ってこの群れの中に安心して居て良いのです。 もともと神のものだったのに、この地上に生まれ出た時から、神を知らずに好きなところへと向かっていったのです。「その一匹のことを喜ぶだろう」。九十九匹ではなく、この一匹のことを喜んでくださる、神の喜びが、この私に向けられている。そのことに気が付いたとき、私たちは、自分自身が「小さな者」であることに気が付き、小さな者の一人になっていることでしょう。