2022年6月12日合同礼拝
「天の国でいちばん偉い者」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 18章1~5節

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 合同礼拝を捧げています。6月の第2主日は、教会の暦で「花の日・子どもの日」と定め、多くの教会で、合同礼拝を捧げています。私たちも、教会学校の子どもたちと大人と一緒に礼拝を捧げています。子どもたちを招き、囲い、礼拝しています。

 「子どもの日」と定めを持つ記念をするほどに、子どもたちを招くことの難しい時代がありました。教会がそのように定め、子どもの日礼拝を大切に覚えるのは、主イエスのお示しになったことが形となったからでしょう。

 主イエスは子どもを大人の所有物となさらない方でした。弟子たちが主イエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。』 「子供のようにならなければ」。このことの指すのはどういう意味かと様々に問われてきました。純粋とか、懸命など、私たちの思う子供の姿もあるでしょう。けれども、そうしたイメージの子供を大人が受け入れてあげるのだ、という話ではありません。

 子どもはどんな存在なのか。子どもの性格は様々ですが、必ず言えることは、助けてもらわなければ生きられない存在です。社会では、大人というのは自立した存在だと言えるでしょう。子どもはそうではありません。自立できません。必ず人の助けがなければ成長できません。人の助けなく、大人になった人はいないはずです。 「子供のようにならなければ」。それは、人に助けてもらう存在なのだということを知ることです。けれども、それは大人も同じです。ましてや、社会的な助けではなく、天の国では、神の助けなしには入ることすらできないのです。 子どものようになる人が、主イエスを受け入れることができるのです。主イエスの助け無く、神を知り、天の国に近づくことはできません。 私たちは、自分の罪にも気づかないでいます。知らぬ間に、主イエスがその罪を担ってくださっていたということ、主イエスの命のあがないを後から知ったのです。 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」 「大人なんだから、頼らない様にしよう」。「大人だから〇〇しなきゃいけない」。そのように思うときもあるでしょう。 けれども、頼ることは悪いことではありません。頼られてうれしかったという経験もあるでしょう。そうした自立ばかりでなく、頼ることや助けてもらうという、大人らしさではない、子どもとしての姿を受け入れるということが、天の国、教会の中での交わりの姿なのです。

 けれども、頼る時というのは、謙虚で、節度ある大人びた姿ばかりではありません。子どものような姿を誰もが持っていると思います。 「子供のようになる」ことと、「子供を受け入れる者」ということを主は言います。 「子どもじゃあるまいし!」、「もう子供じゃないんだから。」と思うような時、「あの人、こういう時子供っぽいのよね。」、「相手の子供っぽさ」を受け入れられません。自分の思う通りにならないことが許せないのです。あの人の中にある、子どもっぽさが受け入れられず、また自分自身のこういうところが嫌い。子供のような私の姿、が受け入れられないのです。 

 マタイ18章は共同体について記されています。教会の姿が示されています。教会、そして天の国は、自立していない人が受け入れられない所ではなく、「助けてほしい」と言える場所です。 聖書を開き、御言葉を聞いていると、心が子供のような気持に戻ることがあるでしょう。これまで、「自立しなさい」と言われてきた。「任されたのだから、自分で責任を負わなければならない」。「私がしっかりしなければ」と考えてきた経験を多くの人が持っていることでしょう。大人になり、「しっかりしなさい。」、「自立しなさい」と言ってきた人たちもいるでしょう。主イエスは十字架にかかる時、父なる神に、助けを求め、祈られました。「私が担うから大丈夫です。」とは言いません。「自己責任」などという言葉は無く、「父よ」と呼びかけ、助けを求めておられました。神の助けを私たちは必要としています。助けを求める自分自身の姿を受け入れ、主イエスの救いを受け入れる者を、主は喜んでくださいます。