2022年7月10日主日礼拝
「自由になるための赦し」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 18章21~35節

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 18章の共同体への教えの話の締めくくりとして「仲間を赦さない家来のたとえ」と呼ばれる話を聞きました。教会共同体の中で、またこの礼拝から押し出されて、それぞれの生活の場所へと遣わされていった先で、私たちがどのように、人と関係を結んでいくのかを問われています。

 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。そのお答えは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」。数で言えば490回。私たちは、相手が何か間違えた時、赦すということを考える時、「我慢すること」や「注意を促す」ことで、怒らない。怒りを持たないようにすることで、「赦さない!」と思うこととは違うと考えると思います。しかし、主イエスが言われた「赦す」は、「我慢」とは違います。490回赦すというのは、もう数えず、されたことは忘れてしまいなさいと言われているのです。 

 人と会う約束をして、準備をしていったのになかなか来ない。連絡もなく、そのまま会えなかった。その後、忘れていたと電話が入った。1度は赦せるても、同じことが2度3度とあったら「もう、あの人とは会うのはやめよう」と距離をとり、連絡をとらなくなるかもしれません。主が言われた「赦す」は、されたことを数えず、以前のことは忘れてしまいなさいと言うのですから、もう一度その人と同じ約束をする。そういうことを言われているのです。

  たとえを主は話されました。家来たちに貸した金を決済する王の話です。最初に呼びだされた家来には1万タラントンの貸しがありました。約6000億円。生涯かけて働いても返せない額です。しかし、王は家来がしきりに願う姿を憐れに思い、彼を赦し、借金を帳消しにしました。王は筋を通すことよりも、もっと大切なことを選んだのです。王は帳簿を破り捨ててでも、家来と一緒に生きていくことを望んだのです。家来は恩を返しながら生きていくことができましたが、そうはしなかった。彼はその帰り道に百デナリオン貸していた仲間に出会います。約100万円。そして取り立てをしました。100万円も大金です。しかし、今、6000億円を赦されたばかりでした。仲間はひれ伏して「どうか、待ってください。」と、家来が王の前で言ったのと同じ言葉で願い出ましたが、捕らえられ、牢に入れられました。それを伝え聞いた王は家来を呼びつけ、家来を牢屋に引き渡してしましました。 

 確かに相手のせいで関係が壊れたかもしれません。
ここ数日、人の命が失われら事件を受けて「絶対に許せません」という言葉を耳にした方も多いかもしれません。傷つけられ、もう取り返しのつかないと思うこともあるでしょう。或いは、家族だからこそ赦せない思いや、見捨てられたような経験をしたら、簡単には赦し、手放すことはできません。ある方は「人の命を奪うなんてあってはならないと思う。」と言いました。その通りです。しかし、こうも続けました。「ただ、命を奪ってしまった人が、どんな思いをして、行動に移したのか、その心の内も大切に受け止めて、これからでも癒しが与えられることを祈ります。」。そう私に話してくれました。また、別の出来事で、幼い子供の命が奪われたキリスト者の家族がいました。涙ながらに「私は赦します」と語りました。赦すことは苦しいことです。それを人が人に強要などできません。自分の気持ちが傷つけられたこと、どうしてこんな損をしなければいけないのかという思いを帳簿に刻み、それをしっかりと握りしめたくなるでしょう。赦すことが善で、赦さないことが悪という話でも、赦し合いましょう。とか赦すことが良いクリスチャンだと言うのではありません。

 ただ、ここで主が仰っているのは、私たちは鈍感であるということです。主が話されたのは私たちの物語です。普段、自分がこんなに多額の借金をしているとは思いません。しかし、実はそれを赦されながら生きている。それなのに100万円の借金を取り立てようとしているのです。 誰かに赦された経験のある人は、相手を赦すことができると言います。それなのに、この家来はどうして赦せなかったのでしょう。おそらく、赦されたことに気が付いていないのです。彼は王の赦しの背後にどれだけの痛みがあったのかに気が付いていないのです。主は限りなく赦せと言われましたが、家来は牢の中に居ます。ある人は、この家来はずっと牢の中に居たのだと言います。あの人にこれをされた。この人にはこれを言われた。そういって帳簿を握りしめて生きてきました。それは牢の中に囚われているような苦しみです。彼はそこへ再び帰ったのです。 「七の七十倍までも赦しなさい」。もう数えない赦しです。主にとって、赦しは我慢でなく、良いものを獲得するためのものだからです。主が願っていることは私たちが自由になることです。主が十字架の上で私たちを赦してくださったのは、帰って来ない100万円に囚われて生きるのではなく、あの人が何々をしたという帳簿を捨て、神の思いと共に歩むためです。 この壊れた関係を回復できるのは、私の方からの赦しだけなのです。そうであれば、何度でも赦しなさいと主は仰います。赦しによって失うものは何もなく、それよりも、失ってはいけない関係があるのです。主イエスは私たちを赦し、何度だって新しく出会おうとしてくださるお方です。