2022年7月24日主日礼拝
「欠けだらけでも、受け止める器」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 19章1~12節

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 「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」。ファリサイ派の人が、主イエスを試そうとして聞きました。「何か理由があれば」。どういう理由があれば、離縁が許されるのか。ここで問題となっているのは旧約聖書に記される律法のことです。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻には何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。

 主イエスのお答えは、「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。」。神が男と女を創造され「人が父母を離れて女と結ばれて一体となる。」(創世記2:42)。結婚はこの神の意志に基づくものであり、夫婦は神が合わせられたものであり、人間が離してならないと、主イエスは離婚を否定されました。これは、単に離婚の是非だけが問題なのではありません。その根本には、「なぜ今この人と共にあるのか」ということについて語られているのです。それは神がそのように命じられているからなのです。

  「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」。主イエスのお答えは、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」。確かにモーセは離婚を認めました。創世記の言葉と相反することが書かれています。それは人の「心が頑固なので」。それで離縁が許されたのだというのです。しかし、離縁は「許した」のであって、決して権利として主張されることではありません。モーセが離縁状を渡して離縁しなくてはならないと命じているのは、男性の横暴などにより、理由なき離婚を防ぐためです。離縁状も無く離縁された女性が他の男性と生活を始めようとすれば、姦通の罪とされてしまいます。この律法により女性の立場が守られました。この律法は、離縁する場合には書面にその理由を記して、誰にでも申し開きのできる理由がなければしてはならないのです。

  「神が結び合わせた者を、人は離してはならない。」。この言葉のおかげでなんとか結婚生活を続けてこられた、という人もいるでしょう。或いは、「この言葉があるにも関わらず」という思いを経験するかもしれません。この言葉を心に留めている者にとって、苦しい決断に違いありません。主イエスの言葉をそのまま受け止めるなら、結婚は神が結び合わせたものだから、離縁はしてはいけません。そこだけを切り取ったら、離婚したら教会に来辛くなってしまうことでしょう。また、夫婦が離れることになった理由を正当化したくなるでしょう。「〇〇の理由だから仕方ない」。そのように周りの人たちも言うようになるでしょう。しかし、どのような理由があっても離縁には変わりありません。

  私が「結婚準備会」に使っている本があります(『ふたりで読む 教会の結婚式』)。その最後にQ&Aがあり、「教会で結婚したら、離婚はできないのですか?」という項目があります。その答えは『「もちろんです。できません。」というのと、「大丈夫です、いつでも離婚できます。」というのと、どちらが満足できますか?どちらにも満足できないなら、この質問自体がおかしいのです。』とあります。

 忘れてはいないだろうか。神が私たちをどのような目で見ておられる方なのか。主イエスの語る教え、また神の掟は、神の愛がわかる掟、教えであるのです。「神が結び合わせてくださったもの」。離れることを神が悲しんでおられるのだということを心に止めるための掟なのです。また、私たちも、そのことを心に留めているからこそ、苦しむのです。

 だから、この話は「仲間を赦さない家来」のたとえ(18:21-)の次に記されているのです。私たちの歩みは、神への負債を重ねていく歩みなのです。そこには、神に赦された者の姿があり、神に罪を赦され生活をする者たちが教会に集まるのです。主イエスは、結婚する者の抱える思いも、罪も、苦しみも、また、独身で生きる者の抱える思いも、また離縁しなければならなくなった者のためにも、十字架におかかりになって、その全てを引き受けてくださいました。どんな状況の者のためにも、赦される道を用意してくださいました。まさに律法を完成される方で、そこにはキリストによる新しい秩序があるのです。

  隣人の最たるものが夫婦であると思います。私たちの、神と共に歩む生活は私たちの日々の中に伴っています。どういう条件があったら、赦さなくても良いか。どういう条件があれば、処刑しても良いか。どういう条件があれば、訴えてよいか。そのようなことを考えるのではなく、神の意思、御心を受け入れるということ。そのことが求められています。けれども、受けいれることのできない私たちの歩みです。負債を抱えてしまうのです。けれども、赦してくださる神の前に帰って来る者でありたいと思います。私たちの戻るべき場所は神の御前なのです。