投稿

8月, 2020の投稿を表示しています

礼拝説教 9月6日

イメージ
「貧しくなった王」石丸泰信牧師 マタイによる福音書 2章1-12節 占星術の学者たちが新しい王イエスの誕生を祝う場面を読みました。聖書には主イエスの誕生の日付を残していません。後になって教会が決めました。クリスマスは12月25日(325年ニケア公会議)。どうして日付を残さなかったのか。憶測ですが日付以上に、クリスマスの出来事それ自体がどういうメッセージを投げかけているのか、そちらの方こそ大きな関心があったのです。加えて言えば、この降誕の出来事を年に一度ではなくいつも思い出して欲しい。そういう思いもあったかもしれません。 いつも思い出してほしいメッセージの一つは「多くの人は喜ばなかった。喜んで尋ねていったのは外国人の学者たちだけだった」ということです。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」 。彼らはエルサレムの王宮に来ました。王子は王宮で生まれると思ったからです。しかし、そこにはいませんでした。そして 「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」 。ヘロデ王の不安、分かる気がします。新しい王の誕生、すると、自分の立場はどうなると思ったわけです。 「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」 。すると 「ユダヤのベツレヘム」 だと分かります。学者たちは再び歩みを進めると 「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」 。彼らは喜びにあふれ、幼子を礼拝し、 「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬」 を贈り物として捧げました。この贈り物は仕事に必要なものであったといわれます。それがないと生きていけないもの、命の次に必要な大切なものです。それを捧げてしまった。彼らだけがです。  教会の掲示板を見る度に、説教題に「さま」を付ければ良かったなと思って過ごしました。「貧しくなった王さま」。なにか物語が始まりそうなタイトルだからです。それを思う度に思い出していたのは「幸福な王子」(オスカー・ワイルド著)という話です。幸福な王子と呼ばれる銅像がある町に建っていました。体中は金箔で覆われて、目にはサファイヤ、腰の剣にはルビーが施されていました。昔、若くし

新型ウイルス影響下での今後の礼拝様式について

  向河原教会  8 / 30 新型ウイルス影響下での今後の礼拝様式について 8月16日、23日の午後に開催された臨時小会にて以下のことを確認いたしました。   ①3つの段階を定め、随時対応していく。  ・( A )現状より緩和する段階(段階を緩める)                     ・( B )現在の礼拝様式(以下、現状)を維持する段階 ・( C )礼拝休止などの措置を執る段階(段階を高める)   ②上記の段階の推移は 「東京」 の 「直近一週間の10万人あたりの感染者数」 と 「病床のひっ迫具合(病床全体)」 ( NHK まとめ)を規準とし、判断する。 判断のための観察期間は 2 週。ただし緊急の場合は判断を早める場合もある。   ③現状より緩和する為の対応として設備の充実を図る。               ・希望者へのフェイスシールドの配布               ・パーテーションの設置、など               ・十分な換気設備 ○現状より段階を緩めるときの規準( B から A へ)   ・・・新規・感染者の報告数 1.0 人(/ 10 万人)以下                & 病床のひっ迫具合 25 %以下 & 設備の充実 【緩和した場合( A )】 ・段階的に、交読詩編の会衆参加、同時発声の再開、讃美歌をハミングで歌う、などを検討中。   ○現状を維持する段階( B のまま) ・・・新規・感染者の報告数  1.0 人(/ 10 万人)を超えて~ 25 人(/ 10 万人)未満 & 病床のひっ迫具合  50 %以下(最大確保病床の占有率 1 / 2 以下) 【現状( B )】 ・間隔を空けて着席、同時発声無し(讃美歌、主の祈り、信仰告白、交読詩編)、諸集会の休止   ○現状より段階を高めるときの規準( B から C へ)   ・・・新規・感染者の報告数  25 人(/ 10 万人)以上 & 病床のひっ迫具合  50 %以上 【段階を高めた場合( C )】 ・礼拝休止に準ずる措置を執る   ○緩和段階から現状に戻る規準( A から B へ) ・・・新規・感染者の報告数  2.5 人(/ 10 万人)以上 or 病床のひっ

礼拝説教 8月30日

イメージ
マタイによる福音書1章18-25節 石丸泰信牧師 「罪人である我らと共に神はいます」   「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である」 。天使は預言者イザヤの言葉を引用して、この 「インマヌエル」 こそ主の呼び名だと教えます。しかし、印象に残っている方は少ないのではないでしょうか。けれども 「インマヌエル」 こそ聖書を貫くメッセージだとも言えます。橋本鑑という牧師は人々の信仰が生活の中に受肉しないことを嘆き、称名仏教ならぬ「福音的称名」を言いました。この人は朝夕に木魚を叩きながら「インマヌエル、アーメン」と唱え続けたのです。「アーメン」という言葉の意味は「その通りです」というものです。「 神は我々と共におられる。 その通りです」。これこそ、聖書66巻を一言で現す言葉だ、と。 わたしも何度も「主よ、共にいてください」という短い祈りをしたことがあります。あるとき、大学に会いたくない人がいました。嫌いと表現すべきか、恐いと表現すべきか。しかし、大学に行くと会わなければなりません。到着すると、どこにいても、その人の気配を探していました。どこかでこちらを見ているかも知れない。そう思うと立ち去りたくなります。しかし、それをすると、ずっと、この恐れと付き合わないといけない。だから、必ず、こちらから挨拶しよう。会釈でも良いからと決めていました。そのとき、いつも祈っていました。しかし、「共にいてください」と祈っていたなと思います。聖書は違うのです。主は 「共におられる」 と宣言し、「それを信じるか」?わたしたちの中から「共にいてください」という祈りは出てくるかも知れません。他方、主は 「共におられる」 という約束の言葉は出てこないものだと思います。聖書を開いてはじめて知る言葉です。だから、それにただただアーメン。その通りです、と答えるしかできません。あたかも一人であるかのように感じるとき、しかし、どう感じようとも、わたしはあなたと共にと聖書は静かにずっと言っています。 そして 「正しい人」 って言葉が出てきます。 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」 。なぜか。 「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっている

礼拝説教8月23日

イメージ
「わたしたちを建て上げる言葉」小松美樹伝道師 使徒言行録 20章25-38節  パウロがエフェソの教会の長老たちに別れの言葉を語る場面を読みました。教会のことを彼らに託すに際し、これまでのことを思い起こし、またこれから先の教会を見据えて言葉を送っています。パウロが離れた後の教会に起こるであろうことを見据え、これまでパウロが3年間ともに涙しながら昼も夜も教えてきたことを思い出して欲しい。そして目を覚ましていてほしい。と伝えています。  「この言葉は、あなた方を造り上げることができる」というのは、他の聖書の箇所では「建てる」という言葉で何度も出て来ます(マタイ16:18)。 先週の話に「教会とは、自分たちが教会だ」という話がありました。教会は自分たちと対面したり、対立して見るのではない。「私たちの向河原教会」という所有物としての言い方でもなく「私たち教会は」という関係が正解だという話がありました。私と今隣にいる人とで私たち自身が形作るものが教会。それぞれ一人一人が神様のものとされて所有とされて、一緒にキリストの体を造り上げ、教会を造り上げているのです。つまりパウロの言う「言葉が造り上げる」というのは私たち自身であり、教会であるということです。  私たちは多くの言葉に囲まれて生活しています。自分の支えになった言葉というものがあると思います。学生時代の先輩に言われた言葉、先生からの言葉、家族がかけてくれた言葉。職場での忘れられない言葉。けれども一方で、言葉は人を貶め、傷つけることもあります。言葉は人を造り上げ、立ち上がらせる力を持つ一方で、人を悲しませ、倒れ込ませ、人を崩すこともできます。  私が学生の頃、学生のボランティアが子どもたちをキャンプに連れていくために準備をし、ミーティングを繰り返していました。思春期の多感な中高生のキャンプであったため、個々の考えを大切にしたいという思いがありました。けれども、個人の思いを尊重するあまり、どんな対応が正しいのかわからなくなってしまいました。教育には、人が思う親切な言葉や、良いと思う方法を並べるのではなく、人を建て上げる聖書の言葉が必要なのだと思いました。人はどこへ向かって行くべきなのか見失います。しかし聖書は人が神に向かって行く時、傷つけ合う言葉ではなく、建て上げる言葉を身にまとっていくこ

礼拝説教8月16日

イメージ
「福音のはじまり」石丸泰信牧師 マタイによる福音書1章1-17節   マタイによる福音書をしばらく読みたいと思います。4つの福音書のうち唯一、「教会」という言葉が出てくる福音書です。そのため、教会に生きるわたしたちにとって福音書の中に自分自身の姿を見つけやすいのではないかと思いました。 ある説教者は、聖書のいう「教会」について、こう言います。「教会とは自分たちが教会である」。教会は自分たちと対面するように立っているのではないのだということです。時に対立的に教会を見てしまうことがあります。そのときの言い方は「この教会は○○だ」という仕方でしょう。しかし、そういう風に立っているのではない、と。また「わたしたちの教会は○○です」という風に、自分の所有物であるかのように立っているのでもありません。では、どう立っているか。正確に言えば「わたしたち教会は」です。他でもないわたし自身と隣に座る人たちとで主の体なる教会を形作っています。自分は、その部分なのです。教会は対面的に立っているのでもなく、わたしたちの所有物なのではなく、むしろ、それぞれ一人ひとりが神の所有とされて、キリストの体の一部を作り上げている教会そのものということです。 そういう風にして、この福音書を開くとき、そこに登場する弟子たちの姿や人々の姿を、自分自身を見るように聴けるのではないかと思います。彼らも教会というキリストの体の一部を作り上げている者たちです。それに、わたしたち自身の姿を重ねたとき、わたしたちの物語が書かれているものとして読むことができる。 さて、皆さんが主イエスの物語を始めるとしたら、どうやって始めるでしょうか。マルコは預言者の声。ルカは最初の読者への献呈の言葉。ヨハネは世界の始まりまで遡ってスタートさせました。どうでしょうか。どのような語り口で始めるか。マタイは「系図」を見せることから始めました。しかし、多くの人が思うでしょう。退屈だ。どうしてか。それは自分と関係のない系図だからです。しかし、もしも我が家の系図であれば違うと思います。知らぬ名前を見つければ、喜んで家族に聞く。なぜか。それが自分の起源に繋がるからです。 1 節を見ると 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」 とあります。アブラハムはイスラエルの祖、信仰の父です。神は彼を地上のすべての者の祝福

礼拝説教8月9日

イメージ
「あなたがたも同じようにしなさい」石丸泰信牧師 フィレモンへの手紙1-25節 『フィレモンへの手紙』には、オネシモの「その後」のことは書いていません。パウロの、この言葉で締めくくられています。 「あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう」 。 これは 「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」 と言っていたことを指しています。 オネシモはフィレモンの家の奴隷でした。しかし、主人を裏切り、逃げ出した人です。そしてパウロの下へ行き、そこで福音に触れキリスト者になります。そのオネシモをフィレモンの家に送り返すのです。一般的には逃亡奴隷を再び迎えるということはありませんでした。それを承知の上でパウロは頼んでいるわけです。このオネシモを 「わたしと思って迎え入れて欲しい」 。 そして「その後」はどうなったのか。『コロサイの信徒への手紙』にオネシモという名が出てきます( 4:9 )。コロサイ書は、この手紙よりもより後に書かれた手紙です。つまり、赦され受け入れられて、ここに名が記される者となったのです。さらに、『イグナティオスの手紙』の中に「エペソ教会の監督オネシモ」という名が出てくることから、彼は教会の監督になったと見ることもできます。もちろん、同一人物であるかは推測の域を出ません。オネシモという名前は当時、多かったからです。名の意味は「役に立つ者」。パウロも彼の名をもじって 「以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」 。その名の通りですと言っている場面があります。いずれにしても、彼は「その後」、少なくともパウロと一緒に働くものとなったわけです。 そして、こうも言われています。「パウロの死後、パウロ書簡の収集活動の中心を担ったのがオネシモだと思われる。彼自身が書簡集に『フィレモンへの手紙』を編入し、それがやがて正典となっていったのではないか」。確かに、この手紙が聖書に収められているのは不思議です。他のパウロ書簡と違って極めて個人的な内容を扱っている手紙に見えるからです。それなのになぜ?という問いに対して、オネシモ自身が残したと推測するわけです。そのおかげで、今、わたしたちの手元にある、と。 自分の過ちが書かれた手

礼拝説教8月2日

イメージ
「喜ばしい交換」 石丸 泰信 牧師 フィレモンへの手紙 17-25節  「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください」 とパウロは言います。続く言葉は唐突です。 「わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」 。何の話をしているのか。オネシモの負債はわたしが支払います。この手紙が、その借用証書の代わりです、と言っている訳です。人の負債を肩代わりする、この原動力は何だろうかと思います。  似た台詞が「善いサマリア人」の譬えにもあります。民族的に対立していたユダヤ人の男が半殺しにされて倒れているのを見つけ、憐れに思い、ロバに乗せ、宿屋に連れて行くサマリア人の話です。翌朝、彼は何泊分かの代金を先払いし、こう言います。「この人を介抱してください。費用がもっと掛かったら、帰りがけに払います」(ルカ 10:25- )。こう言える原動力は何でしょう。ある人は「憐れ」という言葉は「ああ、我のようだ」というイメージから来ているといいます。このサマリア人は倒れている人を見て、ああ、我のようだ。これは自分だと受け止めたのかも知れません。  では、相手の負債を負うパウロの動機は何であるか。相手を自分の様に見るということもあると思います。しかし、何よりの原動力は「主イエスが自分にそうしてくれたから」です。  この手紙の17節からは 「わたし」 という言葉が頻発します( 1-7 節ではあなた、 8-16 節ではオネシモが話題でした)。パウロは 「わたし」 を強調しながら4つの願いを記しています。 「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」 。 「わたしの借りにしておいてください」 。 「わたしの心を元気づけてください」 。 「わたしのため宿泊の用意を頼みます」 。そして、これらの願いには前提の条件があります。 「わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら」 です。手紙を受け取るフィレモンは、もちろんパウロの仲間です。それなのに敢えてパウロは 「仲間と見なしてくれるのでしたら」 と言うのです。この 「仲間」 は「コイノーノス」という言葉です。「コイノニア」と同じ語根。意味は、訳が難しいですが「一つを互いに分ける人」です。強調点は「一つ」の方にあります。たとえて言えば、同じ一つの体ということです。お腹