礼拝説教8月16日

「福音のはじまり」石丸泰信牧師
マタイによる福音書1章1-17節

 

マタイによる福音書をしばらく読みたいと思います。4つの福音書のうち唯一、「教会」という言葉が出てくる福音書です。そのため、教会に生きるわたしたちにとって福音書の中に自分自身の姿を見つけやすいのではないかと思いました。

ある説教者は、聖書のいう「教会」について、こう言います。「教会とは自分たちが教会である」。教会は自分たちと対面するように立っているのではないのだということです。時に対立的に教会を見てしまうことがあります。そのときの言い方は「この教会は○○だ」という仕方でしょう。しかし、そういう風に立っているのではない、と。また「わたしたちの教会は○○です」という風に、自分の所有物であるかのように立っているのでもありません。では、どう立っているか。正確に言えば「わたしたち教会は」です。他でもないわたし自身と隣に座る人たちとで主の体なる教会を形作っています。自分は、その部分なのです。教会は対面的に立っているのでもなく、わたしたちの所有物なのではなく、むしろ、それぞれ一人ひとりが神の所有とされて、キリストの体の一部を作り上げている教会そのものということです。

そういう風にして、この福音書を開くとき、そこに登場する弟子たちの姿や人々の姿を、自分自身を見るように聴けるのではないかと思います。彼らも教会というキリストの体の一部を作り上げている者たちです。それに、わたしたち自身の姿を重ねたとき、わたしたちの物語が書かれているものとして読むことができる。

さて、皆さんが主イエスの物語を始めるとしたら、どうやって始めるでしょうか。マルコは預言者の声。ルカは最初の読者への献呈の言葉。ヨハネは世界の始まりまで遡ってスタートさせました。どうでしょうか。どのような語り口で始めるか。マタイは「系図」を見せることから始めました。しかし、多くの人が思うでしょう。退屈だ。どうしてか。それは自分と関係のない系図だからです。しかし、もしも我が家の系図であれば違うと思います。知らぬ名前を見つければ、喜んで家族に聞く。なぜか。それが自分の起源に繋がるからです。

1節を見ると「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。アブラハムはイスラエルの祖、信仰の父です。神は彼を地上のすべての者の祝福の源として選び、その子孫によってそれが実現すると約束されました(創12:322:18)。そして「ダビデの子」。神はダビデを王として選び、その子孫から、真の王権を継承する者が出ると約束されました(歴代下6:16、詩132:11)。マタイがここで言わんとしていることはアブラハムへの約束は、その子孫「イエス」によって実現し、真の王権を受け継ぐ者イエスを通して神の祝福はわたしたちに届けられたということです。

では、どうして、この2人だけではなくて、多くの名前が列挙されているのか。わたしも、かつて系図ではないのですが、小学校の授業で自分年表を作ったことがあります。しかし、いざ、作ってみると書くことがない。自分の歴史を振り返っても書きたくないことばかりだからです。先生に急かされて、一応完成させましたが、そのときに思ったことは、誰にも見せたくないし、ここに書き残したくないような事はしないように今後、気をつけようというものでした。書けば書くほど、救いようのない歴史が積み重なっていくからです。

しかし、マタイは多く人々の名前・歴史を書くのです。この系図は14人ごとに区切られています。「アブラハムからダビデまで十四代」ここがイスラエルの歴史のピークです。「ダビデからバビロンへの移住までが十四代」ここから下降の一途を辿ります。「バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」。ここに書かれているのは名ばかりの王の人々です。かつて栄華を誇った者たち。素晴らしい話をする時にはいつも過去形で話さないといけない元王族。他の国の支配の中を生きました。上がるでも下がるでもなく細々と繋がっている系図がマタイの書いた系図です。

どうしてマタイは、これを書けたのか。彼は救いを見たからです。この系図の見方は2つあります。救い主イエスはアブラハム、ダビデの子孫「から」生まれたという見方。そして、この救いようのない歴史・系図の中「へと」キリストが来てくださったという見方です。マタイの系図は自分たちの衰退の歴史でしかなかった。しかし、そこへと来てくださったが故、主の救済史として受け止め直すことができた。喜んで書くことができました。