礼拝説教8月23日

「わたしたちを建て上げる言葉」小松美樹伝道師
使徒言行録 20章25-38節


 パウロがエフェソの教会の長老たちに別れの言葉を語る場面を読みました。教会のことを彼らに託すに際し、これまでのことを思い起こし、またこれから先の教会を見据えて言葉を送っています。パウロが離れた後の教会に起こるであろうことを見据え、これまでパウロが3年間ともに涙しながら昼も夜も教えてきたことを思い出して欲しい。そして目を覚ましていてほしい。と伝えています。
 「この言葉は、あなた方を造り上げることができる」というのは、他の聖書の箇所では「建てる」という言葉で何度も出て来ます(マタイ16:18)。
先週の話に「教会とは、自分たちが教会だ」という話がありました。教会は自分たちと対面したり、対立して見るのではない。「私たちの向河原教会」という所有物としての言い方でもなく「私たち教会は」という関係が正解だという話がありました。私と今隣にいる人とで私たち自身が形作るものが教会。それぞれ一人一人が神様のものとされて所有とされて、一緒にキリストの体を造り上げ、教会を造り上げているのです。つまりパウロの言う「言葉が造り上げる」というのは私たち自身であり、教会であるということです。
 私たちは多くの言葉に囲まれて生活しています。自分の支えになった言葉というものがあると思います。学生時代の先輩に言われた言葉、先生からの言葉、家族がかけてくれた言葉。職場での忘れられない言葉。けれども一方で、言葉は人を貶め、傷つけることもあります。言葉は人を造り上げ、立ち上がらせる力を持つ一方で、人を悲しませ、倒れ込ませ、人を崩すこともできます。
 私が学生の頃、学生のボランティアが子どもたちをキャンプに連れていくために準備をし、ミーティングを繰り返していました。思春期の多感な中高生のキャンプであったため、個々の考えを大切にしたいという思いがありました。けれども、個人の思いを尊重するあまり、どんな対応が正しいのかわからなくなってしまいました。教育には、人が思う親切な言葉や、良いと思う方法を並べるのではなく、人を建て上げる聖書の言葉が必要なのだと思いました。人はどこへ向かって行くべきなのか見失います。しかし聖書は人が神に向かって行く時、傷つけ合う言葉ではなく、建て上げる言葉を身にまとっていくことができるのです。
 私たち自身が造り上げられるのは、「神によって」です。教会は神が、御子イエス・キリストの血によってご自分のものとなさった群れです。教会は牧師のものでも、長老たちのものでもありません。神の御心、御言葉よりも、人の思い、人の言葉の方が優先されることは間違いです。
 教会を建て上げる時、大切なのは主イエスが示してくださった、「与える幸い」です。パウロが従っている主イエスこそが、パウロのためにそのようにして下さいました。罪の中で何もできないパウロのために、主イエスが神の御子である身分を捨て、弱く貧しい人となられ、苦難を負ってくださいました。ご自分の命を捨てて救われるということは、ただただ、キリストから受ける者でしかありません。主イエスの十字架の意味を知ったパウロは、もう何にも損うことのできない、神の恵みを与えられました。私たちも教会の中を見回しても、多くの助けや、配慮、祈りや、奉仕を、教会に集う兄弟姉妹から与えられています。誰も与えるばかりになることは出来ませんし、また「私は一人で大丈夫」だとか、「自分ばかりがやっている」、「何も受けていない。世話にはなっていない」ということもないのだと思います。互いに与え、互いに受け、神の恵みを分かち合っています。だからこそ、孤独になろうとせずに恵みと感謝を数え上げて、与え合うことのできる教会を一人一人のうちに建てるようになっていきたいと思います。
 パウロは語り終えるとき、祈りをもって語り終えました。告別の場面で、思いの全てを最後に語り、それでもなお、神に祈ります。教会の中では事の始めと終わりに祈ることは当たり前に行われています。けれどもそうして祈る事、また執りなしの祈りは、私たちにできる最大の与えることであると思います。また、私たち自身の思いから、神の思いを聞き、神に委ねることの大切な一歩です。祈りの中に、迷いや恐れ、また日々の出来事から、そして将来への歩みをも委ね、尋ね求めて歩めますように。そして私たち一人一人から教会を建て上げ、主イエス・キリストを頭とする教会の歩みを致しましょう。