礼拝説教 9月6日

「貧しくなった王」石丸泰信牧師
マタイによる福音書 2章1-12節

占星術の学者たちが新しい王イエスの誕生を祝う場面を読みました。聖書には主イエスの誕生の日付を残していません。後になって教会が決めました。クリスマスは12月25日(325年ニケア公会議)。どうして日付を残さなかったのか。憶測ですが日付以上に、クリスマスの出来事それ自体がどういうメッセージを投げかけているのか、そちらの方こそ大きな関心があったのです。加えて言えば、この降誕の出来事を年に一度ではなくいつも思い出して欲しい。そういう思いもあったかもしれません。

いつも思い出してほしいメッセージの一つは「多くの人は喜ばなかった。喜んで尋ねていったのは外国人の学者たちだけだった」ということです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。彼らはエルサレムの王宮に来ました。王子は王宮で生まれると思ったからです。しかし、そこにはいませんでした。そして「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。ヘロデ王の不安、分かる気がします。新しい王の誕生、すると、自分の立場はどうなると思ったわけです。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」。すると「ユダヤのベツレヘム」だと分かります。学者たちは再び歩みを進めると「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」。彼らは喜びにあふれ、幼子を礼拝し、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬」を贈り物として捧げました。この贈り物は仕事に必要なものであったといわれます。それがないと生きていけないもの、命の次に必要な大切なものです。それを捧げてしまった。彼らだけがです。

 教会の掲示板を見る度に、説教題に「さま」を付ければ良かったなと思って過ごしました。「貧しくなった王さま」。なにか物語が始まりそうなタイトルだからです。それを思う度に思い出していたのは「幸福な王子」(オスカー・ワイルド著)という話です。幸福な王子と呼ばれる銅像がある町に建っていました。体中は金箔で覆われて、目にはサファイヤ、腰の剣にはルビーが施されていました。昔、若くして命を落とした王子を思い、建てられた像です。そして、この像の中には王子の魂が今も生きていました。王子は町の様子を見て悲しみます。貧しい人、悲しい思いをしている人が多かったからです。そして一羽のツバメに頼み、自分の体の宝石、金箔を人々の家に次々と届けてもらい、最後には見窄らしい銅像になってしまうのです。蛇足ですが、わたしは「もしも、ここに」と考えるのが好きです。もしも、ここに、かつて城に仕え、この王子を知る人が来たら、何を思い何をするだろうかと想像します。誰も見向きもしなくなった見窄らしい銅像の前に立ち、一人の老人は言います。「ああ、王子、こんな姿になって。立派な方だ。この方こそ、この町の王だ。」そして、思わず金の剥げたその体に自分の上着を掛けてしまうのではないか、と思います。そして、このことと学者たちの贈り物とが重なります。「神が人となられた」という幼子の誕生の背後にある、偉大な決意と想いを知って、思わず、持っていた自分のものをすべて捧げてしまったのではないかと思います。

では、なぜ学者たちは、その幼子が「神が人となられた」姿だと分かったのか。ある人は、そこで神の言葉が語られたわけではないが、お会いしたときに、そこで神の言葉をしっかりと聞き取ったにちがいない。神の言葉そのものと呼ばれる方の存在そのものが語った。すると、彼らは自分の商売道具を捧げてしまったのだ、と。神が人になられるというのは、人をお造りになった方が人になるということです。幼子になって、その身をその時代に委ねるということです。別言すれば、可笑しく聞こえるかも知れませんが、ぬいぐるみ職人が、自らぬいぐるみになってしまうこと。これも近いと思います。どんな扱いをされるかは承知の上で身を委ねてしまう。大事にされるか、乱暴に扱われてちぎれてしまうかは分かりません。それでも、持ち主である子どもを信頼して預けてしまう。どうして、そんなことをするのか。そうまでしても会いたかった。一緒にいたかったからです。クリスマスは自分がどうなったとしても、あなたと同じ所に居たいという主の思いが形になった出来事です。そして、その出来事が学者たちを駆り立てた。

 けれども、他の人々は誰一人来なかったと言います。理由は、ヘロデ王と同じ不安を人々も抱いたからです。新しい王の誕生。それならば、今のわたしはどうなる?と誰もが思ったのです。誰もが皆、小さな王さまだと言われます。それぞれに王国を築き、自分の思い通りにしたいと思っています。予定を邪魔されると苛立ちます。「誰々のせいで」が口癖になります。今は「コロナのせい」かも知れません。いつも予定通りがよく、新しいことは起こって欲しくない。この生活を変えたくない。だから「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」

 わたしたちは、この人々の様なのか、学者たちの様なのか、どちらか。事実、今礼拝に来ているのであれば、学者たちと同じなのだと思います。彼らは何も知らずにやってきました。なぜ?と聞かれれば、星に導かれたからです。来て、初めて神の想いを知りました。それはわたしたちも同じです。そして、彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」。別の道とは、象徴的に「新しい生き方」が始まったことを現しています。幼子に出会い、別の生き方が始まったのです。わたしたちも、もう昔すぎて思い出せないだけでクリスマスを知る前とは別の道、別の生き方をし始めています。その原点が、この出来事です。