礼拝説教8月2日
「喜ばしい交換」 石丸 泰信 牧師
フィレモンへの手紙 17-25節
「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください」とパウロは言います。続く言葉は唐突です。「わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」。何の話をしているのか。オネシモの負債はわたしが支払います。この手紙が、その借用証書の代わりです、と言っている訳です。人の負債を肩代わりする、この原動力は何だろうかと思います。
では、相手の負債を負うパウロの動機は何であるか。相手を自分の様に見るということもあると思います。しかし、何よりの原動力は「主イエスが自分にそうしてくれたから」です。
この手紙の17節からは「わたし」という言葉が頻発します(1-7節ではあなた、8-16節ではオネシモが話題でした)。パウロは「わたし」を強調しながら4つの願いを記しています。「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」。「わたしの借りにしておいてください」。「わたしの心を元気づけてください」。「わたしのため宿泊の用意を頼みます」。そして、これらの願いには前提の条件があります。「わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら」です。手紙を受け取るフィレモンは、もちろんパウロの仲間です。それなのに敢えてパウロは「仲間と見なしてくれるのでしたら」と言うのです。この「仲間」は「コイノーノス」という言葉です。「コイノニア」と同じ語根。意味は、訳が難しいですが「一つを互いに分ける人」です。強調点は「一つ」の方にあります。たとえて言えば、同じ一つの体ということです。お腹が痛むとき、足は無関心ではいられません。立ち止まります。同じ一つの体だから一緒に痛みます。そういう意味で、わたしパウロを同じ体の一部と見なしてくれるのなら、わたしの体の一部であるオネシモを迎え入れて欲しい。1-7節では、フィレモンが多くの人を元気づけていると聞いて喜んでいますとパウロは書いていました。フィレモンがそうしていたのは、その人々が自分のコイノーノスだからです。そこにわたしたちも入れてくれとパウロは言いたいのです。
パウロの原動力は神に受け入れられた経験です。それを言い換えれば、愛の経験です。愛を言葉で伝えるのは難しいことだと言われます。パウロ自身、キリストの愛の出来事・十字架を言葉で伝えるのは「愚かな手段」と言っています(Ⅰコリント1:21)。なぜか。難しいからです。愛は体験しないと分からないからです。丁度、体の痛みを言葉で伝えるのが難しいように。しかし、同じ怪我や病気をしてみると、ああ、あの人の苦しみはこういうことだったのかと、すぐに分かるように。愛も言葉や知識ではなく、体験して初めて分かります。パウロはフィレモンに、そしてわたしたちに、この手紙全体を通してそれを体験して欲しい。そう願って書いています。