礼拝説教 8月30日

マタイによる福音書1章18-25節 石丸泰信牧師
「罪人である我らと共に神はいます」


 
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である」。天使は預言者イザヤの言葉を引用して、この「インマヌエル」こそ主の呼び名だと教えます。しかし、印象に残っている方は少ないのではないでしょうか。けれども「インマヌエル」こそ聖書を貫くメッセージだとも言えます。橋本鑑という牧師は人々の信仰が生活の中に受肉しないことを嘆き、称名仏教ならぬ「福音的称名」を言いました。この人は朝夕に木魚を叩きながら「インマヌエル、アーメン」と唱え続けたのです。「アーメン」という言葉の意味は「その通りです」というものです。「神は我々と共におられる。その通りです」。これこそ、聖書66巻を一言で現す言葉だ、と。

わたしも何度も「主よ、共にいてください」という短い祈りをしたことがあります。あるとき、大学に会いたくない人がいました。嫌いと表現すべきか、恐いと表現すべきか。しかし、大学に行くと会わなければなりません。到着すると、どこにいても、その人の気配を探していました。どこかでこちらを見ているかも知れない。そう思うと立ち去りたくなります。しかし、それをすると、ずっと、この恐れと付き合わないといけない。だから、必ず、こちらから挨拶しよう。会釈でも良いからと決めていました。そのとき、いつも祈っていました。しかし、「共にいてください」と祈っていたなと思います。聖書は違うのです。主は「共におられる」と宣言し、「それを信じるか」?わたしたちの中から「共にいてください」という祈りは出てくるかも知れません。他方、主は「共におられる」という約束の言葉は出てこないものだと思います。聖書を開いてはじめて知る言葉です。だから、それにただただアーメン。その通りです、と答えるしかできません。あたかも一人であるかのように感じるとき、しかし、どう感じようとも、わたしはあなたと共にと聖書は静かにずっと言っています。

そして「正しい人」って言葉が出てきます。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。なぜか。「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」からです。「正しい人」って、どんな人でしょう。真面目さ、几帳面さのことではありません。聖書のいう「正しい人」とは「神との関係が正しい人」です。なので、こう説明がされるときがあります。神の言葉・旧約の律法には次のように書いてある。姦淫するものは死罪(申命記22章)。妻に恥ずべき事を見つけ、気に入らなくなったときは離縁状を渡し、去らせる(同24章)。ヨセフは自分の子ではない命を身ごもったマリアに対して、死罪を望まず、命を守る方の離縁状を選んだのだ。だから、正しい、と。

しかし、この説明にずっと引っかかっていました。そうならば「優しい人」という言葉でも構わないではないか。なぜなら天使が夢でこう告げているからです。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。ヨセフは恐れていたのです。天使の登場に対してではありません。迎え入れることを恐れていた。「正しい人」とは「神との関係が正しい人」と前述しましたが、逆説的ですが、だからこそヨセフは、自分の罪を十分に自覚していたのだと思います。そこに妻マリアに聖霊、つまり神の介入があったことが伝えられる。だからこそ、恐れたのです。旧約の預言者イザヤに神の介入の出来事があったときの第一声は「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(イザヤ65)でした。自身の罪をしっかり受け止めていたヨセフは、神の奇跡に選ばれたマリアから身を引こうとしていたわけです。

 天使は続けます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は、自分の民を罪から救うからである」。「イエス」という名は「主は救ってくださる」という意味の名です。天使が名前の話をここでしたのは、ヨセフが自分の罪を思い、恐れていたからです。恐れるな、その罪は、この子が救う。聖書が「救う」というとき、言わんとしているのは十字架です。神が痛み無しに、不思議な力で我々を幸せにしてくれるという思想は幻想です。天使は「この子は、自分の民を罪から救う」、痛みをもってあなたを救う、命を代償に救うと言っているのです。

 あるとき、友人が話してくれたことがあります。自分に対して酷い仕打ちをしてきた人を許せなくて、怒鳴り散らしたことがある。でも自分は悪くないと思っていた。相手はそうされて当然の人間だ。しかし、あることをきっかけに気がついた。自分が怒鳴っていたのは、実は全部、主イエスにしていたことだったんだ、と。唐突に聞こえるかも知れません。しかし「あなたの罪を救う」というのは、あなたから出る悪をわたしが全部受けるということなのだと思います。そのときに、わたしも気がつきました。大学に着くまで、相手を罵りながら「主よ、共に」と祈っていた。そのときも主は、その悪態を一身に受けておられた。「共にいる」ということはそういうことです。わたしたちは神を罵るなんてしません。悪態をつくのは嫌いな相手に対してだけです。しかし、神は、その悪を全部受け止めようとされる。

 福音書は最初に系図で歴史を振り返ります。罪の歴史です。わたしたちも振り返れば自分の罪の歴史があります。それを見て、正しい人ならば恐れるでしょう。「インマヌエル」とは恐ろしいことです。しかし、今日、聖書は言います。恐れるな。主が共におられるとは、わたしたちが悪態を付くときに同調しながら共にいるではありませんし、怒りをもって共にいるでもない。その悪を悲しみながら、痛みながら、しかし、離れず共にです。