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2023年9月24日主日礼拝
「神への捧げもの」小松 美樹 牧師
ローマの信徒への手紙 5章1~5節

【説教録画は <Youtube>】 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」 。使徒パウロは、洗礼を受けてキリストの救いに与った人々への、喜びの生き方を勧めています。自分の命のある限り、もっと言うなら、生きるにしても、死ぬにしても、神に喜ばれるものとなる命の歩みです。   「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」 。 「こういうわけで」 とは、ローマの信徒への手紙の 11 章までに語られてきたもので、神の救いは、ただ神の恵みによるものであり、私たちの力や努力によるものではないということです。神に反し、滅びるはずの人間が、神の遣わした御子イエス・キリストの十字架と復活によって、罪を赦され、新しい命に与かったこと。主イエスを私の救い主と信じる信仰によって救われ、洗礼によってキリストと一つにされ、聖霊の働きによって神の愛する子とされたこと。そのことが語られてきました。   「兄弟たち」 とは、洗礼を受けて主イエスと結びあわされ、神の家族となった者。そうした意味を持って「兄弟、姉妹」と教会で呼び合います。キリストに結ばれた家族です。気が合っても、合わなくても、イエス・キリストを通し、信仰によって家族とされているのです。信仰以外の事では一つになれなくても信仰による一致があり、信仰がその土台となっているのです。   「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」 。神の憐れみを感謝して、神の御前に生きること、つまり礼拝するのがキリスト者の生活です。パウロが「勧め」を言うときは、人の危機的状況の中で与えられる、神からの豊かな支援を示していると理解できます。「警告、勧め、慰め、励まし」と広く訳され、罪の世界から抜け出ることができなかった私たちへ、神の警告、慰め、励ましを語っているのです。 滅んでも仕方のない私たちに、神は目を向け、手を差し伸べ、救い出してくださるのです。滅びるはずの私たちを、神が御手の中に置いてくださり、神の赦しによって、神に献げるにふさわしい 「聖なるいけにえ」 にして下さると書かれています。私たちがそのままで「聖なるいけにえ」なのではありません。主イエスの十字架によって与えられた赦しが、「聖なるいけにえ」に変えてくださったのです。そして、私たちが神の御前に出る者にされたのです。 私たちの人生を神に献げることを「献身

2023年9月17日主日礼拝
「苦難の先の希望」小松 美樹 牧師
ローマの信徒への手紙 5章1~5節

【説教録画は <Youtube>】   伝道者パウロは、多くの手紙を書きました。その中には牢獄に監禁されていた時のものもあります。伝道者として、喜びばかりでなく、苦労も多く経験しました。しかし、パウロは辛さに目を向けるのではなく、むしろ「苦難をも誇りとします」と言っています。苦難に勝る喜びを経験しているのです。「希望はわたしたちを欺くことはありません」と言います。   私たちの生活の中の、裏切らないもの、欺くことのないものなど、無いのかもしれません。様々な挫折や、自分ではどうすることもできない事柄に突き当たる経験を誰しもするでしょう。けれども、同じように挫折も限界も味わったであろう投獄経験のあるパウロは、決して孤独ではなかったのです。それは「神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。私たちの人生が神の取扱の中に置かれていて、わたしたちの思う終わりは、もう終わりではなくなったということでもあります。時に、もうお仕舞いだ。諦めようと感じる事があります。病になってしまった。もう自分の人生から良いものは出てこないだろう、と。けれども、復活の出来事は、誰もが諦めた、その先があることを聖書は示しています。神は、私たちをわが子のように扱ってくださいます。ここに、私たちがどんなに苦しくとも、闇に勝つ光があります。   「練達」もとの意味は「テストに合格した」という言葉です。練達という言葉にもその意味が含まれていると思いますが、何度も試練に遭って、それを乗り越えて、合格して、そのようにして練り清められていくことです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。原文では同じ言葉なのですが、新共同訳聖書のローマ書では「練達」、フィリピ書では「確かな人物」と訳されています。 練達はだんだんとその道を深めていくことです。つまり時間がかかるものです。繰り返し、繰り返し、神の希望を見つめなおし、気づき、神の愛の内に私はいるのだと、深めていくことの繰り返しなのです。   パウロは、「苦難は忍耐を生む」と言い切っています。なぜ忍耐できるのか。神の愛を信じているからです。苦難に心が折れて、かえって罪深くなってしまうことばかりのように感じますが、そうではありません。神の愛の中に、確かな御計画があるとこを信頼できるからそのように語れるのです。それは、主の十字架の出来事によって、罪が赦され

2023年9月10日主日礼拝
「手紙」石丸 泰信 先生
ローマの信徒への手紙 1章16~17節

【説教録画は <Youtube>】  『ローマの使徒への手紙』を読みました。パウロが記した、まだ行ったことのない町の、会ったこともない教会の人たちに宛てた手紙です。自己紹介の目的も含め自分がこれまでしてきた説教で伝えてきた福音がどのようなものであったか。そういうことが書かれている手紙です。 その最初に「わたしは福音を恥としない」と言います。どうしてこれを言わずにいられなかったのか。恥としてしまう危険性をパウロ自身自覚していたのだと思います。主イエスは、この時代を「神に背いた罪深い時代」(マルコ8:38)と称しました。神は不要。むしろ、自分たちの知識、技術、経験を誇りにしたい時代です。それは今も変わらないかも知れません。そういう価値観の中で、神を信頼し福音によって生きていると口にすること。自分が良いと思っていることを良いと言うことは難しい。そのことをパウロは分かっているわけです。しかし、もちろん公言できるか否かではないと思います。人には一々言わないかも知れない。けれども、大切にしている。大切にしているのがわたしです。パウロは、そういう所に一緒に立ちたいのです。   続けて「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」と言います。端的に言えば、キリストの復活です。わたしたちの命が死を超えて、永遠に生きる者とされたこと。また、死という闇、恐れ。それを取り去ってくださった神の働きが、今、自分にも与えられている。それが福音、良い知らせです。これは与えられたという実感のないものです。ただ、本当にそうだと信じる者にしか、その恐れを取りのぞく事は出来ない。だから、信じるか?と聖書は問うわけです。それが「信仰によって救われる」という福音理解です。   この出来事に対して聖書は、主イエス自らが復活したとはいいません。神が主イエスを復活させたといいます。聖書の時代の人々でも、神は生きておられるのだろうか。仮に生きていてもわたしたちに関係があるのだろうかと問わずにはいられない時代でした。そういう中ではっきりと、神は生きておられ、わたしたちの人生も神の取扱の中に置かれていることが示されたのです。そして、この神の力は死の恐れに対する特効薬というだけではありません。わたしたちの思う終わりは、もう終わりではなくなったということでもあります。時に、もうお仕舞

2023年9月3日主日礼拝
「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命」小松 美樹 牧師
ヨハネによる福音書 3章16節

【説教録画は <Youtube>】  本日は、使徒信条の最後の言葉「罪の赦し、からだのよみがへり、永遠の命を信ず。」が主題です。世界の教会にとって基本となる使徒信条です。使徒信条によって、父なる神、子なる神であるイエス・キリスト、聖霊なる神を信じると、私たちは告白しています。父、子、聖霊なる三位一体の神を信じることは、私たち罪人が神の愛の御業の中で、罪の赦しを信じることです。  使徒信条は「私は信じる」というラテン語で始まります。使徒信条は、私たちが人生において何度迷子になっても、どんな闇の中にたたずんでいても、そこで神の声を聞き分ける耳を与え、神の御許に立ち帰る道を照らしてくれるのです。  「罪の赦し」。教会・聖書で語られる罪は、一般的な違反・犯罪で考える罪ではありません。本来の意味は「的外れ」です。神との関係が本来のあり方からずれてしまっていること。的を外してしまっている関係です。生き方が的外れとなっていると言うのです。本来、人は神の愛の交わりの中で、神に従い生きる者として造られました。そこで私たちは本来の人間らしい姿として生きるのです。しかし、実際は、神に従うよりも自分の思いに従うことを当然のこととして自己実現のために生き、自分自身が神のようになってしまうのです。人との関係もすべてが自分の益になるものだけ近づけ、そうでなければ遠ざけてしまう。その姿勢で神をも見ているのです。C.Sルイスという文学者はそのことを、「人が裁判官で、神が被告席にいる」と言っています。神が自分にとって有益なものであるかどうかを人が審判しているのです。けれども、そのような私たちに、主イエスは「私に従いなさい」と言われます(マルコ2:14)私たちの的外れだった生きたを打ち壊す、思いがけない言葉です。自分のためでなく、自分のために命を捧げてくれた方のために生きる。それが私たちの罪の姿をそのままに受け止めてくださる方に従う姿。それは主イエスによって罪赦された者であることを信じ、主イエスを中心とした世界の中で生き始めるのです。使徒信条の告白の度に、自分の生きる世界を思い起すのです。  「身体のよみがえり」。人は体と霊を持つように、復活の時も、身体のよみがえりがあるのです。人は必ず死を迎えます。聖書はそのことを「眠りにつく」と言います。天の国に迎え入れられるのは、世の完成の時であり、主イエス

2023年8月27日主日礼拝
「聖なる公同の教会」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 16章13~20節

【説教録画は <Youtube>】  「教会」、「宗教」と聞くと抵抗を感じる人は少なくないと思います。その抵抗感は、献金や、教会の中での人間関係が躓きとなったり、過去の宗教の事件など。教会の中で、人との関係に疲れたり、嫌な思いをすることや、牧師と合わないことがある。教会に来てみて、良いところだと思い始めたり、大切にしている場所だからこそ、期待と違うことが起きたとき、こうした裏切りのような経験は辛いでしょう。けれども、そうしたことがあっても、「教会を信じる。」そのように使徒信条によって告白するのは、私たち自身が、教会を見失わないためです。   「聖なる公同の教会」。人の関係の中で躓きを覚える教会が、「聖なる」と言われます。「聖なる」とは、神が「区別」されたもので、神がご自身の目的のために、自由な決断で選ばれたことを言います。神が教会を選ばれた場所で、神によって建てられた教会で礼拝すること。定められた時間に、区別して礼拝を捧げること。献金を神に捧げるものとして、区別し、それを神が選ばれる。神が分けたもの。それが聖なるものです。私たちの品性、性質のことを「聖なる」の中に見るのではありません。また私たちが神に捧げることができるようになるのは、イエス・キリストによって「聖」とされ、区別されるようになるのです。     「公同の教会」。これは元の言葉のラテン語、また英語でも「カトリック」という言葉です。教会が公同性は、どの地域、どの時代においても、同じ一つの信仰に生きると言う事です。また、それはどんな人にも開かれているのです。キリスト教学校の礼拝は教会ではなく学校礼拝です。公ではありません。同じ礼拝ですが、特定の生徒のために行われます。「公同の教会」は大人も子どももみな等しく神の御前に集められて礼拝を捧げるのです。   「聖徒の交わり」とは、わたしたちがキリストによって聖とされている者であることを言っています。主イエスは私たちのために命を注いでくださったこと。私たちの罪はそのままに、神の愛と赦しによって生かされていること。驚くべき出来事です。一人一人の品性ではなく、神が選ばれたものとして交わりをもつこと。また同じ聖餐の食卓を囲む者。それが「聖徒の交わり」です。 使徒言行録に記される、ペンテコステの出来事から、教会が始まりましたから、主イエスの教えの時代には、まだ教会はあり