2023年9月3日主日礼拝
「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命」小松 美樹 牧師
ヨハネによる福音書 3章16節

【説教録画は <Youtube>】

 本日は、使徒信条の最後の言葉「罪の赦し、からだのよみがへり、永遠の命を信ず。」が主題です。世界の教会にとって基本となる使徒信条です。使徒信条によって、父なる神、子なる神であるイエス・キリスト、聖霊なる神を信じると、私たちは告白しています。父、子、聖霊なる三位一体の神を信じることは、私たち罪人が神の愛の御業の中で、罪の赦しを信じることです。

 使徒信条は「私は信じる」というラテン語で始まります。使徒信条は、私たちが人生において何度迷子になっても、どんな闇の中にたたずんでいても、そこで神の声を聞き分ける耳を与え、神の御許に立ち帰る道を照らしてくれるのです。

 「罪の赦し」。教会・聖書で語られる罪は、一般的な違反・犯罪で考える罪ではありません。本来の意味は「的外れ」です。神との関係が本来のあり方からずれてしまっていること。的を外してしまっている関係です。生き方が的外れとなっていると言うのです。本来、人は神の愛の交わりの中で、神に従い生きる者として造られました。そこで私たちは本来の人間らしい姿として生きるのです。しかし、実際は、神に従うよりも自分の思いに従うことを当然のこととして自己実現のために生き、自分自身が神のようになってしまうのです。人との関係もすべてが自分の益になるものだけ近づけ、そうでなければ遠ざけてしまう。その姿勢で神をも見ているのです。C.Sルイスという文学者はそのことを、「人が裁判官で、神が被告席にいる」と言っています。神が自分にとって有益なものであるかどうかを人が審判しているのです。けれども、そのような私たちに、主イエスは「私に従いなさい」と言われます(マルコ2:14)私たちの的外れだった生きたを打ち壊す、思いがけない言葉です。自分のためでなく、自分のために命を捧げてくれた方のために生きる。それが私たちの罪の姿をそのままに受け止めてくださる方に従う姿。それは主イエスによって罪赦された者であることを信じ、主イエスを中心とした世界の中で生き始めるのです。使徒信条の告白の度に、自分の生きる世界を思い起すのです。

 「身体のよみがえり」。人は体と霊を持つように、復活の時も、身体のよみがえりがあるのです。人は必ず死を迎えます。聖書はそのことを「眠りにつく」と言います。天の国に迎え入れられるのは、世の完成の時であり、主イエスが再び来られると言われた再臨の時に起こるのです。キリスト者は、身体のよみがえりを信じます。不確かなことではなく、主イエスが復活されたように、確かな約束の下、安心し、希望をもって眠りにつくのです。それは、今日を生きる私たちの一日一日が、その平安の中を、希望を持って生きることと同じです。 

 使徒信条の最後は、「永遠の命を信ず」です。永遠の命は罪と死だけでなく、地上での苦しみや悲しみなどのあらゆるものから解放された命です。死の支配ではなく、神と共にある命を生きるのです。永遠の命は世の終わりに来るだけでなく、私たちはすでに、永遠の命に与っているのです。永遠の命は信仰を与えられた時からある喜びなのです。しかし、信仰によって永遠の命を与えられていても、私たちは繰り返し信仰の迷いや、悲しみの出来事に押しつぶされそうになります。けれども、十字架の贖いによって与えられた命は、キリストに結ばれた命です。その事実が、永遠の命の喜びに必ずや引き戻してくれます。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」。それほどまでに私たちの滅びを悲しみ、私たちを愛してくださる神と共に歩む喜びの中に生きていることを告白するのが使徒信条です。 神さまを信じる生き方。もう新しい生き方に変わっている。自分の思いが中心で審判するのではない。イエスキリストによって、示された神の思いを中心として生きる。それは、どんなくらい道のようであっても「光の武具を身につけ」たような、涙の中にありながら、慰めと喜びを分かち合う光へと繋がっている道を歩み始めているのです。