2023年9月10日主日礼拝
「手紙」石丸 泰信 先生
ローマの信徒への手紙 1章16~17節

【説教録画は <Youtube>】

 『ローマの使徒への手紙』を読みました。パウロが記した、まだ行ったことのない町の、会ったこともない教会の人たちに宛てた手紙です。自己紹介の目的も含め自分がこれまでしてきた説教で伝えてきた福音がどのようなものであったか。そういうことが書かれている手紙です。 その最初に「わたしは福音を恥としない」と言います。どうしてこれを言わずにいられなかったのか。恥としてしまう危険性をパウロ自身自覚していたのだと思います。主イエスは、この時代を「神に背いた罪深い時代」(マルコ8:38)と称しました。神は不要。むしろ、自分たちの知識、技術、経験を誇りにしたい時代です。それは今も変わらないかも知れません。そういう価値観の中で、神を信頼し福音によって生きていると口にすること。自分が良いと思っていることを良いと言うことは難しい。そのことをパウロは分かっているわけです。しかし、もちろん公言できるか否かではないと思います。人には一々言わないかも知れない。けれども、大切にしている。大切にしているのがわたしです。パウロは、そういう所に一緒に立ちたいのです。 

 続けて「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」と言います。端的に言えば、キリストの復活です。わたしたちの命が死を超えて、永遠に生きる者とされたこと。また、死という闇、恐れ。それを取り去ってくださった神の働きが、今、自分にも与えられている。それが福音、良い知らせです。これは与えられたという実感のないものです。ただ、本当にそうだと信じる者にしか、その恐れを取りのぞく事は出来ない。だから、信じるか?と聖書は問うわけです。それが「信仰によって救われる」という福音理解です。 

 この出来事に対して聖書は、主イエス自らが復活したとはいいません。神が主イエスを復活させたといいます。聖書の時代の人々でも、神は生きておられるのだろうか。仮に生きていてもわたしたちに関係があるのだろうかと問わずにはいられない時代でした。そういう中ではっきりと、神は生きておられ、わたしたちの人生も神の取扱の中に置かれていることが示されたのです。そして、この神の力は死の恐れに対する特効薬というだけではありません。わたしたちの思う終わりは、もう終わりではなくなったということでもあります。時に、もうお仕舞いだ。諦めようと感じる事があります。病になってしまった。もう自分の人生から良いものは出てこないだろう、と。けれども、復活の出来事は、誰もが諦めた、その時に遅れて起こった出来事です。だから、信じてまだ良いと聖書は言うのです。

  「福音には、神の義が啓示されています」と続けます。神の義は神の正しさ、誠実さ。啓示とは示されているということです。わたしたちの誠実さはいい加減なものです。けれども、神の誠実は必ずだとパウロは言うのです。だから、こう続けます。「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と。約束を信じられなかったら約束は成り立ちません。お仕舞いではなくなったといわれても信じられなくて諦めてしまったら、その先は見せません。だから、最初から最後まで信じるということを通して実現することを忘れないで欲しいのです。 

 最後に「『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と言います。旧約のハバクク書の引用です。パウロ自身、この言葉によって新しくされた人だと思います。彼は「正しい人は、その正しさによって生きる」という生き方をしていた人。それを辞めた人です。主イエスのたとえ話の中に、自分を義人=正しい人と思って、人を見下してしまっている人のことが描かれています(ルカ18:9-)。人が自分の正しさを誇るとき、同じように生きられない人を見下げます。周りの人は離れていくでしょう。他方、主イエスの生き方に現れている神の義は違います。当時、正しい生き方ではないと見放されていた徴税人、罪人と呼ばれた人たちが大勢、主イエスの元に集まってきます。自分は正しくはなり得ないが、その主の正しさの中に自分を委ねてしまいたいと思わせる何かがあったのだと思います。 

 パウロは、この手紙の中で「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし…」(5:6-)と書きます。人は、自分の正しさに生きるとき愛を忘れます。正論を言おうとするとき相手を愛してなんかいません。自分の正しさを愛し、誇りにしているのです。そういう生き方をしていたとき、その自分の為に死んでも良いと言ってくれる人はいませんでした。パウロは自分は正しい、自分は愛のある人間だと思っていました。けれども、誰よりも愚かな生き方をしていたのです。そして、彼は自分の愛の欠如に気がつきます。それは、そういう自分を主イエスに愛されたと気がついたときでした。そういう自分のために死んでも良いと主イエスに言われたのです。その時、パウロは自分の正しさではない、神の正しさを信じて生きる生き方を始めたのです。 神の正しさを信じて生きるというのは、もうお仕舞いだと言って自分の人生を捨ててしまう生き方ではなく、それでも、大丈夫と信じて自分の人生を愛する生き方です。今はまだ意味が分からないかもしれない。けれども、それでも信じて待つ生き方です。旧約のノアもアブラハムも約束を信じて待った人です。主イエスの弟子たちもそうです。きっと彼らはパウロと同じように言うでしょう。「わたしは、今、あなたが信じていることを、信じ続けることは、恥ずかしいことだとは思わない」。