2023年9月17日主日礼拝
「苦難の先の希望」小松 美樹 牧師
ローマの信徒への手紙 5章1~5節

【説教録画は <Youtube>】

  伝道者パウロは、多くの手紙を書きました。その中には牢獄に監禁されていた時のものもあります。伝道者として、喜びばかりでなく、苦労も多く経験しました。しかし、パウロは辛さに目を向けるのではなく、むしろ「苦難をも誇りとします」と言っています。苦難に勝る喜びを経験しているのです。「希望はわたしたちを欺くことはありません」と言います。 

 私たちの生活の中の、裏切らないもの、欺くことのないものなど、無いのかもしれません。様々な挫折や、自分ではどうすることもできない事柄に突き当たる経験を誰しもするでしょう。けれども、同じように挫折も限界も味わったであろう投獄経験のあるパウロは、決して孤独ではなかったのです。それは「神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。私たちの人生が神の取扱の中に置かれていて、わたしたちの思う終わりは、もう終わりではなくなったということでもあります。時に、もうお仕舞いだ。諦めようと感じる事があります。病になってしまった。もう自分の人生から良いものは出てこないだろう、と。けれども、復活の出来事は、誰もが諦めた、その先があることを聖書は示しています。神は、私たちをわが子のように扱ってくださいます。ここに、私たちがどんなに苦しくとも、闇に勝つ光があります。

  「練達」もとの意味は「テストに合格した」という言葉です。練達という言葉にもその意味が含まれていると思いますが、何度も試練に遭って、それを乗り越えて、合格して、そのようにして練り清められていくことです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。原文では同じ言葉なのですが、新共同訳聖書のローマ書では「練達」、フィリピ書では「確かな人物」と訳されています。 練達はだんだんとその道を深めていくことです。つまり時間がかかるものです。繰り返し、繰り返し、神の希望を見つめなおし、気づき、神の愛の内に私はいるのだと、深めていくことの繰り返しなのです。

  パウロは、「苦難は忍耐を生む」と言い切っています。なぜ忍耐できるのか。神の愛を信じているからです。苦難に心が折れて、かえって罪深くなってしまうことばかりのように感じますが、そうではありません。神の愛の中に、確かな御計画があるとこを信頼できるからそのように語れるのです。それは、主の十字架の出来事によって、罪が赦されている。それだけでなく、罪人である私たちが神の「義」とされるという驚くべきことのなかに入れられているのです。 「練達」、あるいは「確かな人物」というのは、神の愛だけは疑うことができない、そういう信仰に根差していく人ということです。私たちに注がれる神の愛、神の憐れみの視点の中に立つとき、私たちの歩みと見てきたものは、新しくなります。この世の言葉の中には無かった神の御言葉の中に生きる者となるからです。自分の使命、自分のいのちを自分のために用いるのではなく、神に感謝を捧げるように、その命を生きるようになるのです。