2023年8月27日主日礼拝
「聖なる公同の教会」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 16章13~20節

【説教録画は <Youtube>】

 「教会」、「宗教」と聞くと抵抗を感じる人は少なくないと思います。その抵抗感は、献金や、教会の中での人間関係が躓きとなったり、過去の宗教の事件など。教会の中で、人との関係に疲れたり、嫌な思いをすることや、牧師と合わないことがある。教会に来てみて、良いところだと思い始めたり、大切にしている場所だからこそ、期待と違うことが起きたとき、こうした裏切りのような経験は辛いでしょう。けれども、そうしたことがあっても、「教会を信じる。」そのように使徒信条によって告白するのは、私たち自身が、教会を見失わないためです。

  「聖なる公同の教会」。人の関係の中で躓きを覚える教会が、「聖なる」と言われます。「聖なる」とは、神が「区別」されたもので、神がご自身の目的のために、自由な決断で選ばれたことを言います。神が教会を選ばれた場所で、神によって建てられた教会で礼拝すること。定められた時間に、区別して礼拝を捧げること。献金を神に捧げるものとして、区別し、それを神が選ばれる。神が分けたもの。それが聖なるものです。私たちの品性、性質のことを「聖なる」の中に見るのではありません。また私たちが神に捧げることができるようになるのは、イエス・キリストによって「聖」とされ、区別されるようになるのです。 
 
 「公同の教会」。これは元の言葉のラテン語、また英語でも「カトリック」という言葉です。教会が公同性は、どの地域、どの時代においても、同じ一つの信仰に生きると言う事です。また、それはどんな人にも開かれているのです。キリスト教学校の礼拝は教会ではなく学校礼拝です。公ではありません。同じ礼拝ですが、特定の生徒のために行われます。「公同の教会」は大人も子どももみな等しく神の御前に集められて礼拝を捧げるのです。

  「聖徒の交わり」とは、わたしたちがキリストによって聖とされている者であることを言っています。主イエスは私たちのために命を注いでくださったこと。私たちの罪はそのままに、神の愛と赦しによって生かされていること。驚くべき出来事です。一人一人の品性ではなく、神が選ばれたものとして交わりをもつこと。また同じ聖餐の食卓を囲む者。それが「聖徒の交わり」です。 使徒言行録に記される、ペンテコステの出来事から、教会が始まりましたから、主イエスの教えの時代には、まだ教会はありませんでした。教会は伝道を始めた使徒たちの伝道の旅の拠点となりました。ですから、福音書の中ではまだ教会はありませんが、それでもマタイ福音書は「教会」という言葉を使っています。ペトロが弟子を代表して、信仰告白をした。それは神が示してくださらなければ決してすることのできない告白です。そして主イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたように、主イエスによって建てられて初めて教会が建つのです。元の意味をたどれば「教会」(エクレシア)は「神が呼び集められたものの群れ」です。今こうして礼拝に集う私たち一人一人は、神に選ばれて招かれているのです。