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主日礼拝2021年11月7日
「真実の休み」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書11章20~30節

[録音] [録画] Youtube  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」主イエスが語られた言葉です。  罪深い町々の代表であるティルス、シドン、ソドム。ソドムの町は聖書の中でも最も厳しい裁きを受けたと言われます。しかしそのソドムよりもガリラヤの町の人々は、酷い裁きを受けると主イエスは言います。それは主の言葉を聞いても信じなかったからです。  目の前で宣教する主イエスがいて、言葉と教え、行いが目の前に起きているのに、信じない人々は、神の言葉を信じないまま厳しい裁きに滅ぼされたソドムとゴモラの人々よりも、もっと酷いことだと言うのです。 教会の中には命と死について、そして最後の裁きの時についての言葉があります。その言葉を聞かないままでは、「死」の理解に苦しみます。恐ろしい思いを抱えたまま死を迎えた人もいるでしょう。死後どうなるのだろうかと不安を抱えたままその時を迎える恐ろしさです。しかし、教会の先達は、主イエスを信じました。体の滅びである死を、恐怖だけのものとして受け止めてはいなかったはずです。彼らは、日曜日には今と同じようにこの場所で讃美歌を歌い、主の復活した日曜日の朝早く、礼拝を続けていました。なぜなら、ここに他の場所では聞くことのできない言葉があり、私たちの何よりの慰めであり、安らぎを得ていたからに違いありません。   人は滅びに向かう中にいる。そのように主イエスの言葉は語ります。しかし、そのことを主は嘆いています。そのままにはしておけない。だから、キリストが背負ってくださる。この主イエスの言葉は、滅びに定められた者たちへの救いの言葉そのものなのです。「誰でもわたしのもとに来なさい」。誰もが一人疲れを抱える時があります。うめき、嘆いておられた主は、すべての人のために「わたしのもとに来なさい」と言います。そして、休ませてくれる。それだけではありませんでした。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。何もしなくていいのではないのです。私たちの日々の仕事、人との関係も、主イエスの所に行ったら、面倒や疲れることがなくなるわけではありません。それは人の生活の営みではありません。「軛」により、牛は二頭揃って荷を運び、仕事をします。二つを結ぶものです。主イエスは「軛」によって私たちを主と結ぶのです。人から受けた指示、仕事、

主日礼拝2021年10月31日
「キリストによりて、心動き、踊る」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書11章7~19節

[録音] [録画] Youtube  主イエスがヨハネについて語られています。悔い改めを迫ったヨハネの活動の場所は「荒れ野」でした(3:1)。主は人々に、何を期待して荒れ野にでかけていったのかと問います。風にそよぐ葺を見に行ったのか?しなやかな服を着た人か?荒れ野にでかけて誰に会うのか、と。  人々の前に現れたヨハネは「預言者以上の者」であり、他の預言者とは違う、特別な役割が与えられていました。 旧約聖書の最後の書、マラキ書3章1節に預言されている、メシアの到来に先立ち、道備えをする人物がヨハネです。彼が旧約と新約の橋渡しをして、その後を主イエスが来るのです。しかし「天の国で最も小さな者」、つまり主イエスを信じる弟子たちであり、主に結ばれている人々、教会に集う者の方が、預言者の中でも特別なヨハネより、はるかに特別視されているのです。     「預言者と律法」は旧約聖書全体のことですが、ヨハネ以後、主イエスによって新しい時代がはじまっているのです。「耳のある者は聞きなさい」と、新しい時代の到来を告げる主の言葉を受け止めるように、私たちに期待されています。   けれども当時の人々の態度はこうでした。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』。「ごっこ遊び」をしている子どもたちが「せっかく結婚式ごっこをして、笛を吹いても誰もそれにあわせて踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、誰も悲しんでくれなかった」と言っている姿に似ていると言います。それはヨハネと主イエスの態度が気に入らず、自分たちの思うように従ってくれなかったと言っている人々の姿です。自分の願いが叶えられない。自分たちの利益につながる人でないと困る。そうした態度です。預言者も救い主も、自分たちに従わせたいのです。  ヨハネも「笛を吹いたのに」人々はついていきませんでした。それは、神の国の近づきを知らせて、悔い改めを人々に求めたことです。しかし人々の願いや思いとは違い、期待外れだと、人々は見ているだけでした。 「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。荒れ野にヨハネを見に行ったのに、腕組みをしながら見ていて、批評して、自分の問題として受け止めず、なぜ自分たちの思うように動かないのか、踊らないのかと言っている態度に現れるのです。ヨハネを荒れ野に見に行ったのに

主日礼拝2021年10月24日
「七十年先を見よ」小松 美樹 伝道師
エレミヤ書29章1~14節、ヤコブの手紙1章19~27節

[録音] [録画] Youtube  「御言葉を行う人」とは誰か。別の箇所では「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、守る人は聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」とあります(ヤコブ 1:25)。つまり、そこに大切な何かがある事を知って御言葉を見つめ、心に留め続ける人を「御言葉を行う人」と聖書は言います。マタイによる福音書を通して、私たちに語られる御言葉の中に留まる一年としたいと願い歩んでいます。教会の歩みというのは、まさにそのような歩みであると思います。   70年前の今日、1951年に向河原教会はこの地に伝道を始めました。「なんとかしてキリストの教えをこの子どもたちの心に刻み込んでいきたい」という祈りによって、聖書研究会が始められ、1957年に教会が設立されました。最初は保育園や工場、河原で礼拝を捧げたそうです。1959年に、ここに土地を取得し、会堂建築を計画します。建築許可が出るまでのことが記念史に記されています。神の御計画にゆだねて、資金をすべて献金に捧げることから始まりました。  70年経った今、様々な状況の変化の中にあります。聖書は将来を見よと言うとき70年先を見よと言います(エレミヤ25:11、ダニエル9:2など)。数年後の具体的なものではなく、腰を据えて見ないといけない長い期間です。改めて、教会の創設者たちは、どのように今を見ていたのかと思います。 エレミヤ書29章は預言者エレミヤが「バビロン捕囚」によってバビロンに連れて行かれた人々に宛てて書いた手紙が記されています。神の民イスラエルの歴史において「バビロン捕囚」は決定的な影響を与えた出来事でした。第一回捕囚でバビロンに連れて行かれた人たちに、エレミヤが書いたのは、国が滅びの道へと落ちていく中でのことです。人々の生活、価値観も崩れ、希望が失われていく中、故郷から遠く離れた地で捕囚の民が生きていくのは、厳しいものでした。生活が一変し、その地で暮らしている人たちとの関係も難しいものがあったはずです。自分たちの信仰生活の中心であったエルサレム神殿から遠く離れ、いつ終わるか分からない捕囚生活の中で、支えを見失いました。  「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」。「七十年」は人の一生を意味します。この言葉

主日礼拝2021年10月17日 10時30分~11時20分
「告げ知らされる喜び」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書11章2~6節

[録音] [録画] Youtube   主イエスが伝道を開始するその前に、先駆者として、道備えをしていた洗礼者ヨハネと言う人物がいました。そのヨハネが今、獄中から自分の弟子を主イエスの所に使いに出しました。   「来るべき方はあなたでしょうか。それともまだ他の方を待たなければなりませんか。」 そう問いました。   主イエスは宣教の活動をなさる時、ヨハネがヘロデに捕らえられたその後に、宣教活動を始めます(4:12)。つまりヨハネは、主イエスの活動を直接見ていません。ガリラヤの王ヘロデとその妻の怒りに触れてヨハネは捉えられていたので、牢獄の中にいるヨハネは、弟子たちを通して主イエスの業を伝え聞くしかありませんでした。   ヨハネは、救い主について語り、救いの御業が行われるために道備えをしていたのに、ヘロデに捉えられ牢の中で生涯を終えます。なぜ人を導いてきたヨハネのような人が、こんな仕打ちを受けるのかと思わずにはいられないのが人の心でしょう。けれども、自分の生きる目的というのが、恐れから逃れて命が長らえることなのか、険しくても、自分の命はこのためにあるのだと確信を持って命を燃やすのか、そのことをヨハネは確信をもって使命のために生きたのです。   しかし「なぜ、主イエスが救い主であるなら、私は今ここに(獄中)いるのだろう」そう思わずにはいられなかったと思います。自分のしてきていることが正しいのか?とすら思うかもしれません。獄中のヨハネには不安があったのだと思います。   私の祖父(石丸泰郎)はクリスチャンでした。戦前から戦後の時代を聞くと思い出します。音楽をしていた人で、戦後のラジオ演奏では、ピアノを自分の思うままに演奏して楽しそうだったと聞きました。指揮や西洋音楽を教えていました。戦争になると、西洋音楽を教えることは禁止されました。敵国の歌を教えていると言われ、軍歌を教えるよう指示されていたそうです。憲兵に応じずに、ミッションスクールで西洋音楽や讃美歌を教え続けて捕まりました。「音楽はただ、それだけで美しい」。そう言いつつ捕まった。「軍歌を教えて生き延びることに意味はあるのか」と言って、逮捕されてもなお、キリスト者として生きた姿は、聖書の獄中で賛美をするパウロや、このヨハネと重なる思いがしまいます。けれども、家族も思ったでしょう。本当にこれで良いのだろうかと。そ

主日礼拝2021年10月10日
「神と共にある命」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章40~11章1節

[録音] [録画] Youtube  神学校日礼拝を捧げています。  東京神学大学の学報に献金者の一覧があります。毎月少しずつ献金している人・教会の名前が沢山あります。向河原教会も毎年この時期に、神学校に献金を送ります。神学校での毎日の学びが多くの献金者の支えによってあるのだということに感謝を持っていました。  また神学校日礼拝の中で伝えたいことの一つに、神学校は楽しいところだということです。入学前は、東神大に通うことは、この世の楽しみを全て捨てて行くところだと思っていました。しかし、学内では水を得た魚のように、クリスチャンが聖書の話をし、将来の教会に仕えるための準備の期間として、厳しい学業を助け合い、教え合いました。   「牧師とは何か」という本があります。牧師の働きについて、教会のリーダーとして、礼拝者、説教者、牧会者、カウンセラー、伝道者として等々。神学生はそれらを学ぶ期間です。  では弟子とは何か。今日の聖書は10章から続く弟子の話です。弟子は「受け入れるべき存在」として書かれています。「預言者」「正しい人」とも言われています。それは、遣わされた方がその背後にいるからです。だから、弟子である「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ」。そして、さらに主イエスも神から遣わされているから、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」とあるのです。  その具体的なことが「この小さな者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」です。「小さな者」は自分より小さいとか、弱い立場の人のことではなく弟子のことであり、わたしたちのことです。 教会に来ている人たちはみなそう心がけている。やってきていると思います。伝道のために懸命に人の求め、必要に応えようとしています。けれども一杯の水を差しだして相手から「ありがとう」と言われないとどうでしょう。  私は2歳の次女に何度もやられることですが、コップに水を入れて渡すと、目の前で床に捨てられることがあります。テーブルも床も濡れて「またやられた!」と思います。相手から思わぬ反応が返ってくることもあります。その時「せっかくやったのに」と相手に対して思うことが無いとは限りません。  ただ水を汲んで一杯出すだけのことです。しかし、相手の反応によっては、それができなくなるというこ