主日礼拝2021年10月31日
「キリストによりて、心動き、踊る」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書11章7~19節

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 主イエスがヨハネについて語られています。悔い改めを迫ったヨハネの活動の場所は「荒れ野」でした(3:1)。主は人々に、何を期待して荒れ野にでかけていったのかと問います。風にそよぐ葺を見に行ったのか?しなやかな服を着た人か?荒れ野にでかけて誰に会うのか、と。

 人々の前に現れたヨハネは「預言者以上の者」であり、他の預言者とは違う、特別な役割が与えられていました。 旧約聖書の最後の書、マラキ書3章1節に預言されている、メシアの到来に先立ち、道備えをする人物がヨハネです。彼が旧約と新約の橋渡しをして、その後を主イエスが来るのです。しかし「天の国で最も小さな者」、つまり主イエスを信じる弟子たちであり、主に結ばれている人々、教会に集う者の方が、預言者の中でも特別なヨハネより、はるかに特別視されているのです。 
 
 「預言者と律法」は旧約聖書全体のことですが、ヨハネ以後、主イエスによって新しい時代がはじまっているのです。「耳のある者は聞きなさい」と、新しい時代の到来を告げる主の言葉を受け止めるように、私たちに期待されています。 

 けれども当時の人々の態度はこうでした。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』。「ごっこ遊び」をしている子どもたちが「せっかく結婚式ごっこをして、笛を吹いても誰もそれにあわせて踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、誰も悲しんでくれなかった」と言っている姿に似ていると言います。それはヨハネと主イエスの態度が気に入らず、自分たちの思うように従ってくれなかったと言っている人々の姿です。自分の願いが叶えられない。自分たちの利益につながる人でないと困る。そうした態度です。預言者も救い主も、自分たちに従わせたいのです。

 ヨハネも「笛を吹いたのに」人々はついていきませんでした。それは、神の国の近づきを知らせて、悔い改めを人々に求めたことです。しかし人々の願いや思いとは違い、期待外れだと、人々は見ているだけでした。 「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。荒れ野にヨハネを見に行ったのに、腕組みをしながら見ていて、批評して、自分の問題として受け止めず、なぜ自分たちの思うように動かないのか、踊らないのかと言っている態度に現れるのです。ヨハネを荒れ野に見に行ったのに、何も聞かず、見ず、外から眺めているだけのような私たちではなく、主イエスを信じる者として、特別に扱われる、一人ひとりが神の救いの歴史の登場人物となって役割を担う時がきたのです。 

 「あなたがたは、何を見にここに集っているのか」と主は私たちに問います。私たちは、何のために礼拝に集まるのか。御言葉を聞くためです。何を期待して集まるのでしょう。御言葉を聞いて礼拝を守っていれば大丈夫。とか、御言葉を実行する正しい人、良い信仰者になるために来ているのかもしれません。そういう思いで礼拝に来ているのだとしたら、私たちはまだ「預言者と律法」の古い時代を生きているということになってしまいます。

  宗教改革者のルターも同じ様に生きていました。彼は信仰の人に見えるように、戒律を守ってきまし。救われるため、神の近くに行くことができるようにと、上を目指して、天へとつながるはしごを懸命に上ろうと努力しました。しかし、熱心な修道生活を送る一方で「神の義」の理解に苦しみます。どれだけ善行を尽くしても自らを義(正しい)とは言えないとルターは考えたのです。そこで、「善行ではなく信仰によってのみ義とされる」という信仰義認の思想にたどり着きます。 ルターは気づきました。一生懸命はしごを上ったのに、主イエスは、はしごの下に居たのだと。私たちが期待をして見つめる先ではなく、一番下の、私たちのもとへと降りてきてくださっている主イエスにそこで出会ったのです。

  礼拝で御言葉が語られる時、そこで私たちは主イエスと出会います。私たちの周りに多くの神の備えがあり、支えがあります。私の望みとは違うと腕組をして外野にいるのではなく、それを聞く耳を持って、聞きたいと思います。

  ヨハネは人々に、救い主と対面する備えをさせました。しかしそれは、救い主にお会いするにはそれに相応しい清さ、正しさ、立派さを身につけなければならない、ということではありません。天の国の方が、力をもって私たちのただ中に介入して来ているのです。始まっているのです。上ばかり見ている私たちの気づかない、一番暗く、汚い思いに気づかせてくださる主イエスに出会い、心ふるわせ、感謝と賛美を捧げていきたいと願います。