主日礼拝2021年10月17日 10時30分~11時20分
「告げ知らされる喜び」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書11章2~6節

[録音]

[録画]

  主イエスが伝道を開始するその前に、先駆者として、道備えをしていた洗礼者ヨハネと言う人物がいました。そのヨハネが今、獄中から自分の弟子を主イエスの所に使いに出しました。 
 「来るべき方はあなたでしょうか。それともまだ他の方を待たなければなりませんか。」 そう問いました。

  主イエスは宣教の活動をなさる時、ヨハネがヘロデに捕らえられたその後に、宣教活動を始めます(4:12)。つまりヨハネは、主イエスの活動を直接見ていません。ガリラヤの王ヘロデとその妻の怒りに触れてヨハネは捉えられていたので、牢獄の中にいるヨハネは、弟子たちを通して主イエスの業を伝え聞くしかありませんでした。

  ヨハネは、救い主について語り、救いの御業が行われるために道備えをしていたのに、ヘロデに捉えられ牢の中で生涯を終えます。なぜ人を導いてきたヨハネのような人が、こんな仕打ちを受けるのかと思わずにはいられないのが人の心でしょう。けれども、自分の生きる目的というのが、恐れから逃れて命が長らえることなのか、険しくても、自分の命はこのためにあるのだと確信を持って命を燃やすのか、そのことをヨハネは確信をもって使命のために生きたのです。

  しかし「なぜ、主イエスが救い主であるなら、私は今ここに(獄中)いるのだろう」そう思わずにはいられなかったと思います。自分のしてきていることが正しいのか?とすら思うかもしれません。獄中のヨハネには不安があったのだと思います。

  私の祖父(石丸泰郎)はクリスチャンでした。戦前から戦後の時代を聞くと思い出します。音楽をしていた人で、戦後のラジオ演奏では、ピアノを自分の思うままに演奏して楽しそうだったと聞きました。指揮や西洋音楽を教えていました。戦争になると、西洋音楽を教えることは禁止されました。敵国の歌を教えていると言われ、軍歌を教えるよう指示されていたそうです。憲兵に応じずに、ミッションスクールで西洋音楽や讃美歌を教え続けて捕まりました。「音楽はただ、それだけで美しい」。そう言いつつ捕まった。「軍歌を教えて生き延びることに意味はあるのか」と言って、逮捕されてもなお、キリスト者として生きた姿は、聖書の獄中で賛美をするパウロや、このヨハネと重なる思いがしまいます。けれども、家族も思ったでしょう。本当にこれで良いのだろうかと。そして本人が一番、迷い、苦しみ、神に祈り、問うていたことでしょう。

  ヨハネは神の約束を疑ったわけではありません。しかし、ヨハネにとって主イエスの業は小さすぎたのです。だからヨハネは、問わずにはいられなかった。彼が探していたのは、神がそこにおられると感じることができる、確かなものでした。 ヨハネの使いの者に対し主イエスは、ご自分が何を人々に言ったか何を教えたかではなく、「何が起きているか」伝えさせました。

 主が語られたことは、預言者イザヤによって語り伝えられてきたことでした(イザヤ35:5-6)。預言の成就が、あの預言者イザヤによって言われていたことが、今まさに起きているのだと言うことを伝えました。直接見ることができないヨハネにとって、その語られる光景を思い浮かべた時、鮮やかに神の御業が人々を癒しているのだと知ることができたでしょう。語り伝えられてきたことが、憧れ見たその出来事が、待っていた救い主から聞くことができたのです。ヨハネは自分の役目を考えていたことでしょう。志し半ばなのか、まだ待つべきなのかと。そんな思いを持っていたヨハネにとって、待ち望んでいたことでした。 

  日本の教会の歩みもずっとそのような中を歩いているのかもしれません。日本のキリスト教人口は1%と言われる時代がずっと続いております。そのような中で、教会は気になるけれども、足を踏み入れることが心配、という人がいます。けれども救われたと言う人たちが集まっているところがあるらしい。

 そうして見ると、私たち一人一人に届けられている神の業も、教会の外から見たら本当に小さな神の業なのです。確かに救いの業が起きている。自分の力ではなく、なぜだか神に呼ばれたこと、なぜだか神の取り扱いを受け、触れられた。 そうした噂を聞いて、今も教会を探して訪ねてくる方たちがいます。神がおられると言うのならばここに来れば何かあるのではないかと探して人が訪ねてくるのです。その時、私たちにできる事は、神を指し示す何かがあるのではなく、ただ主イエスに癒していただいた、一人ひとりに主が声をかけてくださった、それぞれの負った傷に触れて下さった主イエスがいて、そのことへの感謝と賛美を捧げる礼拝者としての姿が神の臨在を表すのです。