主日礼拝2021年11月7日
「真実の休み」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書11章20~30節

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 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」主イエスが語られた言葉です。
 罪深い町々の代表であるティルス、シドン、ソドム。ソドムの町は聖書の中でも最も厳しい裁きを受けたと言われます。しかしそのソドムよりもガリラヤの町の人々は、酷い裁きを受けると主イエスは言います。それは主の言葉を聞いても信じなかったからです。

 目の前で宣教する主イエスがいて、言葉と教え、行いが目の前に起きているのに、信じない人々は、神の言葉を信じないまま厳しい裁きに滅ぼされたソドムとゴモラの人々よりも、もっと酷いことだと言うのです。 教会の中には命と死について、そして最後の裁きの時についての言葉があります。その言葉を聞かないままでは、「死」の理解に苦しみます。恐ろしい思いを抱えたまま死を迎えた人もいるでしょう。死後どうなるのだろうかと不安を抱えたままその時を迎える恐ろしさです。しかし、教会の先達は、主イエスを信じました。体の滅びである死を、恐怖だけのものとして受け止めてはいなかったはずです。彼らは、日曜日には今と同じようにこの場所で讃美歌を歌い、主の復活した日曜日の朝早く、礼拝を続けていました。なぜなら、ここに他の場所では聞くことのできない言葉があり、私たちの何よりの慰めであり、安らぎを得ていたからに違いありません。 

 人は滅びに向かう中にいる。そのように主イエスの言葉は語ります。しかし、そのことを主は嘆いています。そのままにはしておけない。だから、キリストが背負ってくださる。この主イエスの言葉は、滅びに定められた者たちへの救いの言葉そのものなのです。「誰でもわたしのもとに来なさい」。誰もが一人疲れを抱える時があります。うめき、嘆いておられた主は、すべての人のために「わたしのもとに来なさい」と言います。そして、休ませてくれる。それだけではありませんでした。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。何もしなくていいのではないのです。私たちの日々の仕事、人との関係も、主イエスの所に行ったら、面倒や疲れることがなくなるわけではありません。それは人の生活の営みではありません。「軛」により、牛は二頭揃って荷を運び、仕事をします。二つを結ぶものです。主イエスは「軛」によって私たちを主と結ぶのです。人から受けた指示、仕事、相談した時は「こうしたらいいよ」、「これがあなたの役割。やってください」と言われる。自分自身が担う仕事です。しかし主イエスは「こうしなさい」、「こうすると良いよ」と語られるだけではなく「一緒にやろう」と言ってくださるのです。一歩、一歩と進むとき、どんなに遅く、弱い足取りでも、主が一緒に足を出し、並んでいてくださいます。苦しくて立ち止まる時、ペアですから、一人では止まれません。待っていてくれます。逃げ出していくとき、嫌でも必ずついてきます。 病の床に伏せるとき、主が共にいてくださいます。家族と離れていくとき、私たちにはついて行くことはできない死の時でも、主イエスの軛に繋がれた人は、一人ではないのです。信仰の先達を思い起こすとき、主イエスのもとにいて、主が一緒に荷を負って歩んでくださっていた幸いがあったことを新たにしたいと思います。

 「裁きの日」つまり「最後の審判」は、主の復活を信じる者にとっては、恐怖を持って待つものではなく、マタイ福音書の他の箇所によれば、「婚宴」なのです。婚宴の席に喜びをもって座りたいと思います。このことが、信仰の先達の死を迎えるときの心を安らかにさせたことでしょう。 家族の死は、残された者にとって、後悔が残るものかもしれません。「あれをしてあげられなかった」、「もっとこうしてあげられたかもしれない」と、できなかったことを数え上げてしまうからです。けれども、永眠者を記念する日の今日、主イエスの言葉を通して、悲しみや、心配、悔やむ思いよりも、人の汚れも過ちも、思いの全てを包み込む、神のものとされていることを覚えたいと思います。

  死で全てが終わるのではない、神の支配があることを信じています。わたしの重荷を負ってくださる主イエスがいる。軛によって主イエスと一つにされている。その神の愛に抱かれて、わたしは眠りにつくのだと、安らぎが約束されています。