主日礼拝2021年10月10日
「神と共にある命」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章40~11章1節

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 神学校日礼拝を捧げています。

 東京神学大学の学報に献金者の一覧があります。毎月少しずつ献金している人・教会の名前が沢山あります。向河原教会も毎年この時期に、神学校に献金を送ります。神学校での毎日の学びが多くの献金者の支えによってあるのだということに感謝を持っていました。

 また神学校日礼拝の中で伝えたいことの一つに、神学校は楽しいところだということです。入学前は、東神大に通うことは、この世の楽しみを全て捨てて行くところだと思っていました。しかし、学内では水を得た魚のように、クリスチャンが聖書の話をし、将来の教会に仕えるための準備の期間として、厳しい学業を助け合い、教え合いました。 

 「牧師とは何か」という本があります。牧師の働きについて、教会のリーダーとして、礼拝者、説教者、牧会者、カウンセラー、伝道者として等々。神学生はそれらを学ぶ期間です。

 では弟子とは何か。今日の聖書は10章から続く弟子の話です。弟子は「受け入れるべき存在」として書かれています。「預言者」「正しい人」とも言われています。それは、遣わされた方がその背後にいるからです。だから、弟子である「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ」。そして、さらに主イエスも神から遣わされているから、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」とあるのです。

 その具体的なことが「この小さな者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」です。「小さな者」は自分より小さいとか、弱い立場の人のことではなく弟子のことであり、わたしたちのことです。 教会に来ている人たちはみなそう心がけている。やってきていると思います。伝道のために懸命に人の求め、必要に応えようとしています。けれども一杯の水を差しだして相手から「ありがとう」と言われないとどうでしょう。

 私は2歳の次女に何度もやられることですが、コップに水を入れて渡すと、目の前で床に捨てられることがあります。テーブルも床も濡れて「またやられた!」と思います。相手から思わぬ反応が返ってくることもあります。その時「せっかくやったのに」と相手に対して思うことが無いとは限りません。

 ただ水を汲んで一杯出すだけのことです。しかし、相手の反応によっては、それができなくなるということがあると思います。差し出したのに、礼も言われなかった。嫌な顔された。すると、次はこの人には出すのやめようと思うかもしれません。自分でどうにかすればいいだろうと、思ってもおかしくはありません。難しさはここにあります。 また、一杯の水を差し出してもらったことをどれだけ覚えているでしょうか。誰かが差し出してくれた水を突っぱねたことのない人はいないと思います。幼少期、反抗期、家族に当たる、不満を抱く。必ずあったと思います。人は「自分のしたこと」、「してもらえなかったこと」は覚えている。けれども、「受け入れられたこと」「してもらったこと」は忘れてしまう。そのことが主イエスの言葉に隠れていると思います。

 人に水を差しだした。けれども受け入れられなかった。だから次はやめておこう。そう思っている自分自身が気が、人から差し出されている水があることに気が付いていないということです。主イエスは人々を愛して、愛して、殺されました。要らないと言われました。差し出しても、差し出しても、払い除けられたのです。 差し出されるその水は尊いものです。それはただ自分の時間と労力を使い、得することが無くても、家族や知人のために差し出すものです。それは、のどが渇いた人に、水を汲んで出すだけのことと同じです。相手の必要を満たすだけで、差し出す人には何のメリットもない。そこに「差し出すこと」の難しさがあります。

 神学校にとって、向河原教会からの献金は一杯の水です。当然のように毎日送られる神学校での学びが教会からの一杯の水で支えられています。でもそれはほとんど直接的に届いたり、神学生からお礼を言われたりすることはありません。それでも毎年予算をとり、神学校日が近くなると、当たり前のように送ります。 

  神学校は楽しいところです。そしてなによりも、献身者自身が、こうした主の言葉に一番慰められます。「献身」は、神学校に行くことだけを指すのではありません。家族のためにイエス・キリストを表す生活をしていくこと、職場や家庭で祈りを以て、主の御心を訪ね求め、それを表す生活を送ること。それら、すべてが神の御心のために身を捧げることなのです。