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主日礼拝2021年9月5日
「誰でも良くない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章1~4節

[録音] [録画] Youtube  主イエスは「弟子を呼び寄せ」ました。その弟子の名前を一人一人、聖書は記しています。教会の最初の姿が描かれているように思います。    私たちが主イエスに従う弟子となったのは、主が先立って私たちを選び、呼んでくださるからです。そのように聖書は示しています。弟子が師を選ぶのではなく、私たちが主の弟子にふさわしくなくても、その私たちを承知で選んでくださった主に信頼をして、従うのです。   「十二人の弟子」は、主イエスが人々に神の国が近づいていることを伝える働き、神の支配が始まっている、そのことを一緒に伝える働き手として呼ばれています。「収穫は多いが、働き手が少ない」(9:37)。この言葉を受けて、10章1節から弟子の話が始まります。「12」とはイスラエルの部族の数です。「新しいイスラエル」、「新しくその歴史を始める神の民」として主イエスは彼らをお選びになりました。そして今は、「教会」という共同体が、古いイスラエルに代わって「新しいイスラエル」、「神の民」として召されています。 選ばれたのは、宗教的指導者でも何でもなく、多くは漁師でした。選ばれた者たちは皆優れた人とは言い難いかもしれません。主イエスに従っているのに、教えの言葉の意味がわからない。主イエスのことが信じられない。裏切る。そのような者たちです。しかし、主イエスはそのような弟子、そして私たちを必要とし名を呼んでいます。   人が自分とチームを組んでくれる人を探したり、グループを作るときには、よく人を選ぶと思います。しかし主の選びは、人間の選択とは違っています。教会の中を見るとわかります。集う人たちが様々な環境から来て、様々な年齢、共通点を持たない人たちです。神に招かれ、呼ばれている人たちは自ら志願してゆくのとは異なります。  これまでの人生の歩みの背景も仕事も考え方も違う一人一人を、神がそのままを愛し、招いてくださっています。その呼びかけに気が付いていても聞かなかった過去や、神などいないと背を向けてきた長い時間を、主イエスの十字架の犠牲によって、赦されているのです。その救いを信じることにより、赦されるのです。そのことだけが共通していることです。私たち一人一人は違いますし、人と比べて優れているかとか、そういう見方もされません。 「あなた方がわたしを選んだのではない、私が

主日礼拝2021年8月29日
「収穫は多いが、働き手が少ない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章35~38節

[録音] [録画] Youtube  主イエスは「収穫は多いが働き手が少ない。」と言いました 。ここで言われる働き手が少ないと言うのは、教会で働く伝道者が少ないのだと言うことです。   主イエスは救いを求める人々の中を歩き、癒しを行いながら、多くの村々を歩き、人々に触れてきました。その主イエスが「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。 「憐れむ」というのは、私たちにとって、現状が良い状態にないからこそ憐れまれるのです。同情とか、可哀そうという言葉や感情を浮かべるかもしれません。聖書の「憐れむ」は「腹わたが痛む」こと。相手を見て、自分の体が痛むほどに、同じ痛みを味わっているのです。他人事ではなく、自分事になります。神の愛が、人には真似できないほどの愛であるように、神の憐れみは、人が憐れむこととは違います。 主イエスが外で見ていた人々の姿、飼い主のいない羊のようだといった人々の姿は、主イエスを知るか知らないかということや、日本のような伝道の困難な国と言われるような姿を見て、まだクリスチャンではないから、収穫が多いと言ったのではありません。 主イエスの目に映っていた人々とは、旧約聖書にはっきりと描かれています。   旧約の時代、国が戦争に出かける時、預言者が始めなさいと宣言をします。王は戦争に出るときには預言者を呼んで、この戦争は良いか悪いかと聞かなければなりません。多くの預言者はこの戦争に勝つと言ってお送り出します。しかし、預言者ミカヤと言うものだけは王の戦死を預言しました。 「イスラエルの人が皆飼い主のいない羊のように散り散りになっているの私はみました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」(列王記上22:17)。 軍隊を率いる王が戦死する軍隊ほど悲しく惨めなものはありません。正しい指導者がいないと軍は散り散りになって逃げるしかありません。 主イエスは、国に対して誠実ではない王のもとで人々が疲れ果て、打ちひしがれているのをご覧になっています。望みを失った民は、後は滅びに向かって散り散りになっていくしかないです。そういう民の姿に、主は憐れまれたのです。希望がないのです。その現実を見て、主イエスは「収穫は多い」と言います。   希望がない中で、なぜ

主日礼拝2021年8月22日
「こんなことは見たことがない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章32~34節

[録音] [録画] Youtube  マタイによる福音書は8章から9章にかけて10個の奇跡と癒しの出来事を記しています。その癒しの出来事や回復の奇跡の記事は、奇跡物語のようでありながら、主イエスの教えと振る舞いの方へと注目して描かれています。  5章から9章にかけて、主イエスの「言葉と行い」の姿が描かれていました。 その10個の出来事の、最後の癒しとなったのが9章32節です。しかし、マタイ福音書は、癒しの出来事に注目するのではなく、人々の驚きと同時に、人々の分裂を記しています。 今日の聖書の出来事は、主イエスの奇跡そのものであると同時に、「悪霊」という私たちを神から引き離そうとする様々なものに対して、私たちが主イエスと出会い、正しい言葉を聞くようになったこと、主イエスによって失っていた人間らしい言葉を取り戻したこと、世の中の言葉、惑わす言葉から、人が正しく聞くべき言葉を得た。そのように見ることもできます。けれども人は奇跡や、驚くべき事に対して喜びを持って受け止めることができる時と、疑いの目を持って反発の思いを持って見る時とがあります。  主イエスの奇跡や癒しの出来事は、人々に平和をもたらすためのものであるように見えます。主イエスがいるからこそ平和がやってくるのだと。けれども、分裂や反発から起こる争いと言うのは、主イエスが居れば無くなるのではなく、人が引き起こすものです。対立のない道を選ぶのか対立を引き起こすのか、選ぶのは私たち自身なのです。  「キリスト教は下層階級の人々の救い」だと言うコメントをした方がいました。なるほど、そのようにキリスト教は思われていたのかと思いました。けれども癒されて救われた人々の中には、宗教家のエリートと言われるような人々もいたことが聖書を読めばわかります。確かに、富める者たちにとっては手放さなければならないことが多く、主イエスの教えの通りに生きると言う事は難しく映るかもしれません。けれども、下層階級と言われる人々にとっても、富は必死に掴んでいなければならない主着しやすいものであると思います。生活が、命がかかっているのですから、それを手放すことはできません。けれども人の生きるのに必要なものは、対立ではなく分け合うようにと、聖書は語ります。   教会は分け合うところです。それは主イエスの教えがあるからそのように私たちも習いたい、そのよ

主日礼拝2021年8月15日
「盲目からの解放者」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章27~31節

[録音] [録画] Youtube  聖書には目の見えない人のことと、癒しの話がよく描かれています。 パレスチナでは、砂埃や太陽の直射を目に受け、また当時の衛星面もあり、失明する人が多かったと言います。しかし、そうした視力のことだけでなく「人の盲目さ」も聖書は示しています。   二人の盲人が主イエスについて行き、主イエスが二人の目に触れ癒されました。この時盲人が叫んだ「ダビデの子」とは、この時代には政治的解放者といった意味合いの強い称号でした。政治的苦しみからの解放者としてのイエスが求められていました。しかし、主イエスは人々が望むことをするために来られた方ではありません。だから「誰にも知らせてはいけない」と厳しく命じています。   「ダビデの子」の称号と共に描かれる、この出来事は、旧約聖書イザヤ書35章5-6節に預言されていた、メシアの到来を告げる合図であることを示唆しています。救い主イエスに出会い、人は神の国に向けていよいよ目が開かれてゆくのです。  「彼らは出て行って、その地方一体に、言い広めた。」。誤ったメシア像(救い主)を広めることになります。喜びと驚きに溢れていたのだとも言えるでしょう。しかし、主イエスが「命じて」いるのに、つまりは、信じている人(イエス)の言われたことを何とも思っていない。言っても大丈夫だろうと、軽んじる姿でもあります。   この物語を聞いて、「見えないのにどうしてイエスがわかったのか」とか「叫ぶ」なんて危険な人かもしれにと、避けたいとか、疑いの目を持つ方もいると思います。そのような「なぜ?」ということに対して聖書には書いていませんが、物や事柄が見えていないのにも関わらず「勘付く」ということはあると思います。  二人の盲人は、見えないけれど、ずっとこの状況からの助けを願っていた。だからこそ気づける。また、自分の近くを通る人に、目をとじたまま話しかけようと想像してみてください。いつもの話し方、トーンではなく、もっとはっきりと、大きな声を出しそうに気がしないでしょうか? 助けを求める呼びかけなら、本当にこちらに気づいて欲しいなら、叫ぶように、呼びかけるといこともよくわかります。見えているときは、呼びかけの時の視線も感じ取り、相手も振り向いてくれる。相手が気付かずに通り過ぎたとしても、「行ってしまったな。また声をかけよう。」と相手を

主日礼拝2021年8月8日
「いのちの与え主」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章18~26節

[録音] [録画] Youtube    「ある、指導者」と「十二年間も患って出血が続いている女」が出てきました。 指導者は「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」と言います。その求めに主イエスは家に向かいます。そこへ12年間出血の止まらない女(以下、婦人)の出来事が入り込んできます。控え目な形で、主イエスの足を止めるようなこともしないで済むように、後ろから近づいて、服の房に触れました。すると主は振り向いて、足を止めて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」。   この2つの出来事は絡み合うように共通のものをもって描かれています。ある指導者の亡くなった娘は、他の福音書に書かれた年齢を見ると12才(マルコ5:42、ルカ8:42)。一方の婦人は12年間出血が止まらなかった。生まれた子どもが12才になるまでの成長する喜びに満ちた12年と同じ年月を、婦人は病を抱えて、交友関係も絶たれ、治療費を使い、先の見えない日々に苦しんでいたのです。   「汚れ」という共通もあります。旧約聖書のレビ記(15:25)によれば、出血している者は「汚れたもの」として、人に会うことも、人前に出てもいけませんでした。しかし「汚れている」との定めは、本人を守るためのものでした。この規定があるから、体が回復するまで人に会わなくて良い、外出しなくても良いのです。けれども、この婦人のように、その期間が長くなれば、人との断絶が続いてしまいます。亡くなった娘の方も、遺体には触れてはいけませんでした。どちらも「汚れ」の規定の中に居たのです。   しかし、主イエスは、この2つの「汚れ」に対する律法、人々の常識になどには目を向けずに、その一線を超えてこられます。 主は、婦人の病をいやし、その後、指導者の娘のもとに行き、手を置き、起き上がらせ、生きかえらせました。できすぎた話のような、聖書をそのまま信じるなんてできないような出来事に思うかもしれません。けれども、よく読むと、主が婦人に言われたのは「あなたの信仰があなたを救った。」。「わたしが救ったのだ」とは言いません。また信仰が救うというのは、信じてるいなら、婦人も指導者もそれぞれの家で信じていることだってできました。しかし、そう