主日礼拝2021年8月8日
「いのちの与え主」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章18~26節

[録音]

[録画]


   「ある、指導者」と「十二年間も患って出血が続いている女」が出てきました。 指導者は「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」と言います。その求めに主イエスは家に向かいます。そこへ12年間出血の止まらない女(以下、婦人)の出来事が入り込んできます。控え目な形で、主イエスの足を止めるようなこともしないで済むように、後ろから近づいて、服の房に触れました。すると主は振り向いて、足を止めて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」。

  この2つの出来事は絡み合うように共通のものをもって描かれています。ある指導者の亡くなった娘は、他の福音書に書かれた年齢を見ると12才(マルコ5:42、ルカ8:42)。一方の婦人は12年間出血が止まらなかった。生まれた子どもが12才になるまでの成長する喜びに満ちた12年と同じ年月を、婦人は病を抱えて、交友関係も絶たれ、治療費を使い、先の見えない日々に苦しんでいたのです。

  「汚れ」という共通もあります。旧約聖書のレビ記(15:25)によれば、出血している者は「汚れたもの」として、人に会うことも、人前に出てもいけませんでした。しかし「汚れている」との定めは、本人を守るためのものでした。この規定があるから、体が回復するまで人に会わなくて良い、外出しなくても良いのです。けれども、この婦人のように、その期間が長くなれば、人との断絶が続いてしまいます。亡くなった娘の方も、遺体には触れてはいけませんでした。どちらも「汚れ」の規定の中に居たのです。

  しかし、主イエスは、この2つの「汚れ」に対する律法、人々の常識になどには目を向けずに、その一線を超えてこられます。 主は、婦人の病をいやし、その後、指導者の娘のもとに行き、手を置き、起き上がらせ、生きかえらせました。できすぎた話のような、聖書をそのまま信じるなんてできないような出来事に思うかもしれません。けれども、よく読むと、主が婦人に言われたのは「あなたの信仰があなたを救った。」。「わたしが救ったのだ」とは言いません。また信仰が救うというのは、信じてるいなら、婦人も指導者もそれぞれの家で信じていることだってできました。しかし、そうではなく、指導者は懇願しに、婦人は主イエスに触りにきました。亡くなった娘の父親は主イエスに正面から頼み込み、婦人は後ろから触れるだけでした。自分が人前に出てはいけない「汚れたもの」だとわかっていたからです。主イエスに声もかけられない。けれども、せめて後ろから触れたい。ここに二人の、隠していたものが公にされました。父親である「指導者」は、主イエスの行為に反対の意を持っていたのではないかと思います。なぜなら、神の教えを説くこと、人々の罪の赦しを与える主イエスは、神を冒涜していると宗教指導者らに睨まれていました。この父親は指導者であるからこそ、「イエス」に頼ることは赦されない、大きな壁がありました。

  婦人は、社会の目や、汚れの規定から、触れる資格もないのに助けを求めに行くことなどできないと思っていたでしょう。しかし、二人はその困難を乗り越え、迷いや躊躇いを乗り越えて、主イエスに近づいたのです。隠していた主イエスへの思いを現しました。

  「信じる」とは、椅子に座るのと同じです。倒れるかもしれない。本当に支えられるだろうか?そんなふうに思っていたら、椅子に体重を預けて座ることはできません。 救ったのは「あなたの信仰」だと主は言われます。婦人と指導者の、主イエスにすべてを預けようとして向かって行った、その信仰だったのです。婦人に癒しが起きたのは、房に触れた時ではありませんでした。主イエスに言葉をかけられた「その時」なのです。また、「治った」という言葉は、「救われた」と同じ言葉で書かれています。婦人は病よりも、主イエスに捉えられて救われました。怒りに捉えられるとき、悔しさや悲しみに囚われるときがある。でもそれにも増して、主イエスが捉えていてくださることに気付けたとき、私たちは幸いな者です。病からも自由になるのです。

  亡くなったはずの娘の手を主が取ってくださり、起き上がりました。これは主の十字架の死と復活を思い起こすように書かれています。私たちの作る壁や困難さを越えて主イエスに歩み寄るとき、命の与え主である主は、死で終わらぬ、病で終わらぬ、希望を与えてくださいます。