主日礼拝2021年8月22日
「こんなことは見たことがない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章32~34節

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 マタイによる福音書は8章から9章にかけて10個の奇跡と癒しの出来事を記しています。その癒しの出来事や回復の奇跡の記事は、奇跡物語のようでありながら、主イエスの教えと振る舞いの方へと注目して描かれています。

 5章から9章にかけて、主イエスの「言葉と行い」の姿が描かれていました。 その10個の出来事の、最後の癒しとなったのが9章32節です。しかし、マタイ福音書は、癒しの出来事に注目するのではなく、人々の驚きと同時に、人々の分裂を記しています。 今日の聖書の出来事は、主イエスの奇跡そのものであると同時に、「悪霊」という私たちを神から引き離そうとする様々なものに対して、私たちが主イエスと出会い、正しい言葉を聞くようになったこと、主イエスによって失っていた人間らしい言葉を取り戻したこと、世の中の言葉、惑わす言葉から、人が正しく聞くべき言葉を得た。そのように見ることもできます。けれども人は奇跡や、驚くべき事に対して喜びを持って受け止めることができる時と、疑いの目を持って反発の思いを持って見る時とがあります。

 主イエスの奇跡や癒しの出来事は、人々に平和をもたらすためのものであるように見えます。主イエスがいるからこそ平和がやってくるのだと。けれども、分裂や反発から起こる争いと言うのは、主イエスが居れば無くなるのではなく、人が引き起こすものです。対立のない道を選ぶのか対立を引き起こすのか、選ぶのは私たち自身なのです。

 「キリスト教は下層階級の人々の救い」だと言うコメントをした方がいました。なるほど、そのようにキリスト教は思われていたのかと思いました。けれども癒されて救われた人々の中には、宗教家のエリートと言われるような人々もいたことが聖書を読めばわかります。確かに、富める者たちにとっては手放さなければならないことが多く、主イエスの教えの通りに生きると言う事は難しく映るかもしれません。けれども、下層階級と言われる人々にとっても、富は必死に掴んでいなければならない主着しやすいものであると思います。生活が、命がかかっているのですから、それを手放すことはできません。けれども人の生きるのに必要なものは、対立ではなく分け合うようにと、聖書は語ります。 

 教会は分け合うところです。それは主イエスの教えがあるからそのように私たちも習いたい、そのように生きたいと、分け合うことをしていきます。その生き方は、一般では通じない、理解されにくいこともあるでしょう。世の中の言葉を借りれば、馬鹿を見ると言う位に、神の御業、神の力に従ってみるそのような生き方です。それは私たちの考え、生活、価値観の中にはなかったものです。

 「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言ったのは、私たちにも当てはまるはずです。主イエスに出会って、「こんなこと、今まで見たことない」と驚く、見たことのない新しい神の支配の中を歩んでいくのです。 教会の姿は聖書です。神の国の現れであり、主イエスの教えです。私たちは主イエスの教えを聞いてそれに従うか、見たことないから疑い、分裂するのか。今まで知らなかった見たことのない神の御業の道を従い歩みたいと願います。