主日礼拝2021年8月15日
「盲目からの解放者」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章27~31節

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 聖書には目の見えない人のことと、癒しの話がよく描かれています。
パレスチナでは、砂埃や太陽の直射を目に受け、また当時の衛星面もあり、失明する人が多かったと言います。しかし、そうした視力のことだけでなく「人の盲目さ」も聖書は示しています。

  二人の盲人が主イエスについて行き、主イエスが二人の目に触れ癒されました。この時盲人が叫んだ「ダビデの子」とは、この時代には政治的解放者といった意味合いの強い称号でした。政治的苦しみからの解放者としてのイエスが求められていました。しかし、主イエスは人々が望むことをするために来られた方ではありません。だから「誰にも知らせてはいけない」と厳しく命じています。

  「ダビデの子」の称号と共に描かれる、この出来事は、旧約聖書イザヤ書35章5-6節に預言されていた、メシアの到来を告げる合図であることを示唆しています。救い主イエスに出会い、人は神の国に向けていよいよ目が開かれてゆくのです。

 「彼らは出て行って、その地方一体に、言い広めた。」。誤ったメシア像(救い主)を広めることになります。喜びと驚きに溢れていたのだとも言えるでしょう。しかし、主イエスが「命じて」いるのに、つまりは、信じている人(イエス)の言われたことを何とも思っていない。言っても大丈夫だろうと、軽んじる姿でもあります。

  この物語を聞いて、「見えないのにどうしてイエスがわかったのか」とか「叫ぶ」なんて危険な人かもしれにと、避けたいとか、疑いの目を持つ方もいると思います。そのような「なぜ?」ということに対して聖書には書いていませんが、物や事柄が見えていないのにも関わらず「勘付く」ということはあると思います。

 二人の盲人は、見えないけれど、ずっとこの状況からの助けを願っていた。だからこそ気づける。また、自分の近くを通る人に、目をとじたまま話しかけようと想像してみてください。いつもの話し方、トーンではなく、もっとはっきりと、大きな声を出しそうに気がしないでしょうか? 助けを求める呼びかけなら、本当にこちらに気づいて欲しいなら、叫ぶように、呼びかけるといこともよくわかります。見えているときは、呼びかけの時の視線も感じ取り、相手も振り向いてくれる。相手が気付かずに通り過ぎたとしても、「行ってしまったな。また声をかけよう。」と相手を見ながら自分も考えたり、反応できます。しかし、目を閉じていつもの声のトーンで話すことを想像すると、まるで独り言のようだと思いました。相手に声が届いているか?まるで自分に話しかけているだけのような感覚になるような気がしました。視力に困難が無いとき、人は「見えている」ことで気が付かない事、見落としていることが多いことを改めて感じました。見えているようで見えていない事があり、見えていないことで、見ようとする、感じ取ろうとする人の感覚があります 。

 「イエスがそこからお出かけになると」。9章9節の始めにも「イエスはそこをたち」という似た表現があります。これは、マタイによる福音書が繰り返し伝える、主イエスの先立って進まれる姿です。1つ前の話には、十二年間、出血が続いている女性の癒しと死んでしまった指導者の娘の話がありました。主イエスの進まれた先にあったのは、死と病からの解放でした。 マタイ福音書の「信仰」の描き方は「行動」に関わるように記されています。行いによって信仰を量ることとは違いますが、信仰が私たちを動かすのだということははっきり言えます。信仰が、私たちを祈らせ、家族への愛の行動を起こさせ、他人であったはずの教会員への思いを起こさせます。行動を起こさせるのです。 主イエスは「今」に留まらず、そこから進み出ていく方です。主イエスが先立って進んで行かれる方であるからこそ、人々は主に出会うことができました。そして主は私たちに言われます。「あなたがたの信じた通りになるように。」信仰が試されているというように聞こえますか?「信じた通り」になるなら、疑っていたら癒しは起きないとも思います。けれども、この言葉は決して私たちの信仰を試したり、量るものではありません。

 主イエスが言われているのは、「私たちの信じる、その信仰のように、必ず救ってくださる」そのことの現れです。約束してくださる、恵みの言葉です。 教会の中で、「あの人は立派だ、良い人だ」。「それに比べて私は劣っている」などと、誰とでも比べる必要のない、あなたとイエス・キリストとの関係を主は見ています。主イエスの言われる言葉を、どう信じるか。それがあなたの救いになる。その通りだと思います。信じたとき、神の恵みがこの身になってゆくのです。