主日礼拝2021年8月29日
「収穫は多いが、働き手が少ない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章35~38節

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 主イエスは「収穫は多いが働き手が少ない。」と言いました 。ここで言われる働き手が少ないと言うのは、教会で働く伝道者が少ないのだと言うことです。 

 主イエスは救いを求める人々の中を歩き、癒しを行いながら、多くの村々を歩き、人々に触れてきました。その主イエスが「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。 「憐れむ」というのは、私たちにとって、現状が良い状態にないからこそ憐れまれるのです。同情とか、可哀そうという言葉や感情を浮かべるかもしれません。聖書の「憐れむ」は「腹わたが痛む」こと。相手を見て、自分の体が痛むほどに、同じ痛みを味わっているのです。他人事ではなく、自分事になります。神の愛が、人には真似できないほどの愛であるように、神の憐れみは、人が憐れむこととは違います。 主イエスが外で見ていた人々の姿、飼い主のいない羊のようだといった人々の姿は、主イエスを知るか知らないかということや、日本のような伝道の困難な国と言われるような姿を見て、まだクリスチャンではないから、収穫が多いと言ったのではありません。 主イエスの目に映っていた人々とは、旧約聖書にはっきりと描かれています。 

 旧約の時代、国が戦争に出かける時、預言者が始めなさいと宣言をします。王は戦争に出るときには預言者を呼んで、この戦争は良いか悪いかと聞かなければなりません。多くの預言者はこの戦争に勝つと言ってお送り出します。しかし、預言者ミカヤと言うものだけは王の戦死を預言しました。 「イスラエルの人が皆飼い主のいない羊のように散り散りになっているの私はみました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」(列王記上22:17)。 軍隊を率いる王が戦死する軍隊ほど悲しく惨めなものはありません。正しい指導者がいないと軍は散り散りになって逃げるしかありません。 主イエスは、国に対して誠実ではない王のもとで人々が疲れ果て、打ちひしがれているのをご覧になっています。望みを失った民は、後は滅びに向かって散り散りになっていくしかないです。そういう民の姿に、主は憐れまれたのです。希望がないのです。その現実を見て、主イエスは「収穫は多い」と言います。 

 希望がない中で、なぜ収穫は多いと言えるのか。それは主イエスは目の前の現実は違うもう一つの神の世界の現実を見ているからです。私たちの現実は、今目の前にあるもの。 しかし主イエスは、疲れ果てた人の中を歩き町や村を残らず回り会堂で教え、御国の福音を述べ伝えありとあらゆる病気を癒しました。それが神の御言葉の実現、現状です。イエスは散り散りになっていこうとする人たち、打ちひしがれた人々の間を歩きまわって、神の国の訪れを語り、希望を持てと言われているのです。主イエスがこのように、弱った人を力づけ病気の人を癒す姿。それは、今近づいている神の国のことを証しているのです。この礼拝も神の国が近づいたことを証をする場所です。 今、神の国は近づいた証拠に起きている事は、収穫は多いとおっしゃった主が、このことのために歩きまわることです。貧しい人たち病に苦しむ人たちの間回って希望を与えておられるのです。

 主イエスは初めに、「神の国は近づいた」と言いました。その実現が目に見えてきていて、誰もそれを拒むことができないのです この地に向河原に教会が建てられて、この教会に集まってくる人が生まれています。決して教会を快く思っていない人たちもこの地域にはいるはずです。けれども神の業がここに立てられて、ここで伝道を始めています。 

 問題は「働き手が少ない」のです。そのことに対してどうしたら良いのか。働き手を立てて下さるように「収穫の主に願いなさい」と言われます。「収穫は多い」、だから、「一緒に働き人になりなさい」とは言われていません。私たちにとって、教会にとっての大切な祈りの課題です。教会が福音を聞くためには、述べ伝える人が必要です。主イエスは、「神の国は近づいた」と人々に宣言なさると、すぐに弟子たちを集め始めました。漁師であった者たちがすぐに従ってきた。信じられないと思いましたけど、信じない私には響かなかった言葉で、主に従い、伝道者になった友人がいます。私たちは祈ることで、何の力になるか、と思うかも知れません。けれども、祈ることによって私たちが神の業を左右するのではありません。祈ることで神の業に参与をさせていただけるのです。