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主日礼拝2021年8月1日
「新しいぶどう酒を味わう」石丸 泰信 先生
マタイによる福音書9章14~17節

[録音] [録画] Youtube   今日は洗礼式が行われます。洗礼を受けるということは新しく「クリスチャン」という名前を与えられる事でもあります。この名にどんなイメージを持っているでしょうか。真面目な人、奉仕を喜んでする人など言われることがあります。嬉しいと思う人もいれば窮屈に感じる人もあるかも知れません。今日の聖書の箇所は、そういうわたしたちの為の出来事を伝えています。   「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て・・・なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った」 。ユダヤの人々は断食ということをしました。食べることを中断し神の御前にある自分を省みるためです。律法は年に一度の断食を命じています(レビ記23:27)。それが宗教的な熱心さを表すものになっていきました。良き信仰者の「しるし」です。熱心な人は週に2度の断食をしていたと言われます。そういう中、主イエスも弟子たちも断食をしませんでした。主は言われます。 「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」 。婚礼は結婚する人がその喜びを共にしてもらうために親しい人を招いて行うものです。その場は喜びが支配しています。そこに断食は相応しくないと言われたのです。   マタイ福音書は、この箇所を 「そのころ」 と言って始めています。直訳すると「その時」です。つまり、徴税人マタイの家での食事の「時」のことです。マタイは弟子として招いてくれたイエスのために宴席を設けました。自分のような者を信じてくれる方がいた。マタイは嬉しかったのです。彼はずっと孤独でした。ローマ帝国への税を集める徴税人は金持ちでしたが、ユダヤの同胞に嫌われました。彼も同胞を嫌っていたでしょう。しかし、今日、大勢の客を招いたのです。お金だけに執着して生きていたことが馬鹿らしくなったのかも知れません。誰に説教されたわけでもないのに新しい生き方を始めた。そして、それを主イエスも喜んでくれた。それがマタイの喜びでした。洗礼を受けてクリスチャンと呼ばれるようになる。それは真面目な人になることではなく、何よりも心の一番奥深くに、この喜びを持っている人の事です。   けれども、こうも主は言われました。 「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」 。主イエスの十字架の死の事です。その時、

主日礼拝2021年7月25日
「教会は正しい人の集まりではありません」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章9~13節

[録音] [録画] Youtube   教会のイメージを聞くと、まじめな人が来る所とか、勉強しなければならない所などと聞きます。初めて教会に来た方は、「思ったより、普通の人が多い」とか、「小さい子もいるんですね」と言われたことがあります。教会に居る人は様々です。しかし、教会にいる人たちに共通して、確かに言えることがあります。神に呼ばれて集められているということです。その人たちは、自分の罪を知り、神の赦しを知る人たちです。教会は罪人が集められる所なのです。      マタイという徴税人が出てきました。主イエスはマタイを見て、足を止め、「わたしに従いなさい」と招きました。マタイの働いている仕事場にまで、主イエスは訪ねて、招きにきました。 主イエスは後にマタイと食事をしていました。そこには主イエスの弟子のほかに、「徴税人や罪人も大勢」で食事をしていました。その様子を見てファリサイ派の人が「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問います。ファリサイ派は、ユダヤ教の2大勢力の一つで、律法学者が多く属していました。ファリサイ派とは「分離」を意味する言葉から来ている名前です。律法を守ること、特に安息日を大切にしていた人々です。だからこそ律法を盾にして「あの人はこれを守っていない。」=「私は守っている・正しい者」と、比べることで自身を保っていました。そこで、主イエスが罪人や徴税人を招いて食事していることを問いただしました。    マタイのしていた徴税人は嫌われた仕事でした。税金を国に代わって集める、税務署の務めをする人でした。しかし、当時の税に関する仕事は、今とは違いました。税は、自分の国に支払う税ではなく、支配下にあったローマ帝国に支払うものでした。ローマ帝国への税金を、ローマの支配者たちは、ローマ人に任せるのではなく、反感を買う仕事は現地のユダヤ人に任せました。多くの徴税人は、ローマの税以上にお金を徴収し、余分を自分のものにしていたそうです。なので、仕方なくこの仕事を選ぶというよりも、嫌われる仕事でありながら、望んでこの仕事を選んでやっていました。金持ちになる一番の近道でした。つまりこの仕事は、同胞から盗み、苦しめるものでした。  「徴税人と罪人」という言葉がセットになって出てきます。これは当時の徴税人理解がここに表わされています。徴

主日礼拝2021年7月18日
「あなたの罪は赦される」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章1~8節

[録音] [録画] Youtube   マタイ福音書は中風の人の癒された話を描きながらも、ここでの主題は主イエスの権威について記しています。   「人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れてきた。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」 中風というのは、体が麻痺してしまい、自分で動くことができないような病を抱えます。そこで、この人を助けようと動いてくれる人がいました。仲間とも家族ともわかりません。主イエスは「その人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。    その人たちの信仰とは、何をしたのでもありません。しかし主イエスにすがる思いで来ました。主イエスに近づいてきたのです。病を癒してくれるかもしれないという願いが叶うのか、まったく不確かで、わからない中です。でも、進んでみなければわからなかった。そこに進み出たということに、主イエスはその人たちの信仰を見たのです。   主が言われたのは、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」でした。病ではなくて、罪が赦されると。当時の病は罰で、罪を犯した結果と思われていました。本人が一番そのことに苦しんでいたかもしれません。中風の人が特別罪深かったわけではありません。そして病が罪の結果では無い、ということは現代の私たちには当然理解できることです。病は誰もが成りえるものです。抱えているものです。罪も、誰もが抱えているものです。神に対して犯す罪は誰もが持っています。わたしたちは、この時、罪のことを全然気づいていないのです。見えていない。病とおなじように、罪も、私たち人は誰でも抱えている。罪は私たちの中に「ある」ものです。     だから病と罪が結び付けられて書かれています。病が罪の結果ではないのに、罪のことをここで言うのは、主イエスが人の中にある、病ではなく、罪を見ているからです。 ここから話は、癒しの出来事から、律法学者たちとの議論になっていきます。律法学者に対し、主イエスは『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいかと問われました。律法学者にも、誰にでも、「あなたの罪は赦される」と言うこと、宣言はできます。しかし、「起きて歩け」というの

主日礼拝 2021年7月11日
「救いを求める者と救い主の孤独」 小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 8章28~34節

[録音] [録画] Youtube   豚の群れに悪霊が乗り移り、豚が崖から湖に落ちて死んでしまう。異様な物語に聞こえるかもしれません。聖書は聞いたままを受け止める。そういうことが必要な一面もありますが、聞き手がイメージ豊かに聞き直すとき、全然違う景色が見えてきます。また同じような経験をしていると、全く違う、自分の物語であることに気づきます。 この物語は、マルコとルカ福音書にも似た話が書いてありますが、マタイは少し違う書き方をしています。出来事の詳細はが省かれ、起きたことの要点だけを書いています。そして、「行け」と言っただけで悪霊を追い出すことのできる主イエスの権威を記しています。   「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると」というのは、船に乗り、嵐の中を渡ってやって来たことがわかります。ガダラ人の地方は、異邦の地で、物理的な距離以上に遠い、隔たりのある関係を表しているようです。  船旅をして、大嵐にもなって、この異邦人の地で何をするのだろうかと思っていたかもしれません。 そんな中すぐに出会ったのが、「悪霊に取りつかれた男」でした。 墓場から出てきた2人の男。狂暴でおまけに叫ぶ。近づきたくない存在だと思います。だから墓場から出てきたのです。普通の生活を送っていないからです。   今、マスクをつけないで外を歩いているだけでも、少し人の視線を感じます。このご時世に「外でマスクをつけない人」=「変わった人」とか「大丈夫なのか?」と映るのでしょう。人は洋装が違うな、と思うとき警戒します。私も電車内でマスクを着けていない人がいたら警戒します。マスク一つで、静かにしていても、そうであるのに、それが、狂暴で、そのあたりの道が通れないほどであるなら、警戒されますし、誰も近づきません。人が通ればいつも見られている、要注意人物です。    そんな男は主イエスが着くと、待っていたかのように、やってきました。 近づいてきておきながら、「神の子、かまわないでくれ。」と言います。でも、悪霊がそうしてこの人を混乱せているのです。助けを求める思いと、やっぱり無理だと逃げたい思いの両方が心のうちにあるということ、よくわかるような気がします。淡々と日常生活を送っているように見えているなかでも抱えていることがあります。本当は苦しくて、心に穴が開いたような思いを持って

主日礼拝 2021年7月4日
「助けて、と言える幸い」 石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 8章23~27節

[録音] [録画] Youtube  「嵐を静める」という箇所をマタイ福音書はユニークな描き方をしています。「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った」とあります。これは弟子たちではなく人々の言葉なのです。場所は湖の真ん中。船は一艘。乗ったのはイエスと弟子たちだけです。この「人々」はどこにいたのでしょう。おそらく、この聖書の箇所が舞台の演目のように演出されて、それを見聞きしている「人々」なのです。   先日、舞台のミュージカルを見に行ってきました。一幕進む度、必ずプリンシパルが歌い、客席からは拍手が。そして場面転換です。なぜ拍手のタイミングが分かるのかと思いました。おそらく、もう何度も見ているわけです。だからタイミングが分かる。今日のマタイもそのような描き方です。主イエスが叱りつけると嵐は大人しくなって凪になる。そこで、観客たちは、拍手をする代わりに声を揃えて言うのです。「いったい、この方はどういう方なのだろう」。それをわたしたちは見ているのです。   他の福音書では、この場面で主イエスが嵐を叱りつけたという奇跡を伝えています。親が子どもを叱るように嵐や湖を叱りつけて静かにさせる。それができるのは親、造り主だけ。主イエスは造り主であることを伝えます。けれども、マタイは客席とのやり取りを見て欲しい。この演目は「人々」が「新しい問い」を持った場面なのです。   ある人は、キリスト者とは、正しい答え(真理)を持って生きている人ではないと言います。むしろ、正しい問いを持っている人たちなのだ、と。弟子たちに対する主イエスの言葉に「信仰の薄い者たちよ」という言葉があります。不信仰ではない。「薄い」。これは信仰が「小さい」とも訳せる言葉です。信仰の計り、尺度が小さいのです。つまり、主イエスを小さく見積もっていたということです。弟子たちにとって主イエスは素晴らしい教師、癒す医者でした。しかし、風や湖は駄目だろうと信じていたわけです。だからこそ驚き、「いったい、この方はどういう方なのだろう」という合いの手が入るわけです。   真理を知っているつもりになると聖書を開かなくなります。そもそも、一般的な宗教のイメージは、平和、穏やかになることです。人生に嵐が起こらなくなることこそ素晴らしい。しかし、聖書はそう言いません。わたしたちの