主日礼拝 2021年7月4日
「助けて、と言える幸い」 石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 8章23~27節

[録音]

[録画]

 「嵐を静める」という箇所をマタイ福音書はユニークな描き方をしています。「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った」とあります。これは弟子たちではなく人々の言葉なのです。場所は湖の真ん中。船は一艘。乗ったのはイエスと弟子たちだけです。この「人々」はどこにいたのでしょう。おそらく、この聖書の箇所が舞台の演目のように演出されて、それを見聞きしている「人々」なのです。 
 先日、舞台のミュージカルを見に行ってきました。一幕進む度、必ずプリンシパルが歌い、客席からは拍手が。そして場面転換です。なぜ拍手のタイミングが分かるのかと思いました。おそらく、もう何度も見ているわけです。だからタイミングが分かる。今日のマタイもそのような描き方です。主イエスが叱りつけると嵐は大人しくなって凪になる。そこで、観客たちは、拍手をする代わりに声を揃えて言うのです。「いったい、この方はどういう方なのだろう」。それをわたしたちは見ているのです。 
 他の福音書では、この場面で主イエスが嵐を叱りつけたという奇跡を伝えています。親が子どもを叱るように嵐や湖を叱りつけて静かにさせる。それができるのは親、造り主だけ。主イエスは造り主であることを伝えます。けれども、マタイは客席とのやり取りを見て欲しい。この演目は「人々」が「新しい問い」を持った場面なのです。 
 ある人は、キリスト者とは、正しい答え(真理)を持って生きている人ではないと言います。むしろ、正しい問いを持っている人たちなのだ、と。弟子たちに対する主イエスの言葉に「信仰の薄い者たちよ」という言葉があります。不信仰ではない。「薄い」。これは信仰が「小さい」とも訳せる言葉です。信仰の計り、尺度が小さいのです。つまり、主イエスを小さく見積もっていたということです。弟子たちにとって主イエスは素晴らしい教師、癒す医者でした。しかし、風や湖は駄目だろうと信じていたわけです。だからこそ驚き、「いったい、この方はどういう方なのだろう」という合いの手が入るわけです。 
 真理を知っているつもりになると聖書を開かなくなります。そもそも、一般的な宗教のイメージは、平和、穏やかになることです。人生に嵐が起こらなくなることこそ素晴らしい。しかし、聖書はそう言いません。わたしたちの世界はクタクタになることが毎日起こるからです。嵐は起こり、船はひっくり返りそうになります。けれども、その時に、この人々の合いの手を思い出すことができるわけです。 
 昼間、空を見上げることはあるでしょうか。代わり映えしないので、知っているつもりになって一々見ないかも知れません。けれども、空を見て「空が変わった」と言った人がいます。星野富弘という方です。教師になって二ヶ月、部活動での事故で頸椎を損傷。手足の自由を失います。しかし、その2年後、口に筆を持って画を描き始めた方です。その間に病床で洗礼を受けたそうなのですが、聖書の言葉の「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」は昔から知っていて、手足が動かなくなった後、そこに行きたいと思ったそうです。「キリストの『私の所へきなさい』という言葉に、素直についていきたいと思った。私のいまの苦しみは洗礼を受けたからといって少なくなるものではないと思うけれど、人を羨んだり、憎んだり、許せなかったり、そういうみにくい自分を、忍耐強く許してくれる神の前にひざまずきたかった」。身体は動きません。静かに見えます。しかし、心の中は忙しない。見舞いに来た人を羨んだり、過去を悔やんだり、心はいつも疲れていました。そんなとき「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。この時から空が変わったそうです。空がわたしを見つめるようになった。空に問いかけても何も答えてくれません。けれども、空(天)が問いかけてくる。わたしは一緒にいるよ、さあ、どうする??彼は、筆を執ったんです。神が造られたこの世界の中に美しさを見つけていこう。今までは、この世界を小さく見ていた。けれども、もっと大きい。主はわたしたちが小さく見てしまうことを愛を持って叱りつけてくださる方です。 
 弟子たちの言葉「主よ、助けてください。おぼれそうです」という言葉は、主の祈りに重なる言葉です。「我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」です。わたしたちの「救い」というのは、どこか、この祈りをしなくなることだと思っています。もう助けてと言わないで済む生活をしたい。そうならば、「我らを試みに打ち勝つ力を与えたまえ」という祈りの方が良いかも知れません。しかし、主は、そうは言われませんでした。聖書は人が苦しみに打ち勝つ力を得ることを救いとは言いません。そうではなく、苦しいとき、悲しいとき「助けて」と言える相手がいる。それが救いというのです。「力をください」という祈りは独りでもできます。けれども「助けて」という祈りは誰かを必要とします。 中高一貫の学校の卒業生が、卒業後、苦しかったときのことを話してくれたことがあります。かつての同級生に「心が枯れてきた」と連絡したそうです。すると「わたしが水になるよ」と返ってきた。慰めてくれて頑張れではなく、あるいは、こうやったら上手くいくよ(だから一人で頑張れ)、でもなくて「わたしが水になるよ」。それで本当に救われたそうです。何をしてくれたではない。ただ、自分のことを大切に思ってくれている友があることに気がついた。
 「助けて」と祈りなさいと主は言われます。それが神との新しい出会いになるからです。そして自分には「助けて」と言える友がいることに気がつく言葉だからです。嵐がない人生が幸いなのではありません。嵐はあります。無いかのようにしてやせ我慢をして生きることが良いのではない。嵐の時、「助けて」と言えることが幸いです。