主日礼拝 2021年7月11日
「救いを求める者と救い主の孤独」 小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 8章28~34節

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  豚の群れに悪霊が乗り移り、豚が崖から湖に落ちて死んでしまう。異様な物語に聞こえるかもしれません。聖書は聞いたままを受け止める。そういうことが必要な一面もありますが、聞き手がイメージ豊かに聞き直すとき、全然違う景色が見えてきます。また同じような経験をしていると、全く違う、自分の物語であることに気づきます。 この物語は、マルコとルカ福音書にも似た話が書いてありますが、マタイは少し違う書き方をしています。出来事の詳細はが省かれ、起きたことの要点だけを書いています。そして、「行け」と言っただけで悪霊を追い出すことのできる主イエスの権威を記しています。

  「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると」というのは、船に乗り、嵐の中を渡ってやって来たことがわかります。ガダラ人の地方は、異邦の地で、物理的な距離以上に遠い、隔たりのある関係を表しているようです。  船旅をして、大嵐にもなって、この異邦人の地で何をするのだろうかと思っていたかもしれません。 そんな中すぐに出会ったのが、「悪霊に取りつかれた男」でした。 墓場から出てきた2人の男。狂暴でおまけに叫ぶ。近づきたくない存在だと思います。だから墓場から出てきたのです。普通の生活を送っていないからです。

  今、マスクをつけないで外を歩いているだけでも、少し人の視線を感じます。このご時世に「外でマスクをつけない人」=「変わった人」とか「大丈夫なのか?」と映るのでしょう。人は洋装が違うな、と思うとき警戒します。私も電車内でマスクを着けていない人がいたら警戒します。マスク一つで、静かにしていても、そうであるのに、それが、狂暴で、そのあたりの道が通れないほどであるなら、警戒されますし、誰も近づきません。人が通ればいつも見られている、要注意人物です。

   そんな男は主イエスが着くと、待っていたかのように、やってきました。 近づいてきておきながら、「神の子、かまわないでくれ。」と言います。でも、悪霊がそうしてこの人を混乱せているのです。助けを求める思いと、やっぱり無理だと逃げたい思いの両方が心のうちにあるということ、よくわかるような気がします。淡々と日常生活を送っているように見えているなかでも抱えていることがあります。本当は苦しくて、心に穴が開いたような思いを持っていたり、空しさを抱えて、自分だけ置いてけぼりになったような感覚になる時。もっと言えば、生きる屍のような思いの時。そういう時は、仕事中だろうと、家事をしていようと、通学の電車の中だろうと、友達に囲まれていても、どこに居たって、生きているのが苦しい。それは墓場と変わらないのかもしれません。そうした思いは、自分の思い描いていた現実と違うときに起きるものだと思います。思っていた学校生活と違った、こんな仕事じゃなかった。自分の居場所がない。こんな毎日がいつまで続くのだろうかと思うとき、入り混じる思いと周りの人々の言葉に揺り動かされます。悪霊に取りつかれた男の気持ちは、きっと私たちにも経験があると思います。

  「イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。」

  「すると豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。」

  この出来事によって聞こえてきた言葉は「おめでとう!」ではなく、「この地方から出て行ってくれませんか。」という言葉でした。人々から避けられ、嫌われ、追いやられていた人から悪霊が出て行き、回復した。しかし、そんなことよりも家畜が死んだことの方が衝撃でした。動物の命を軽視しているわけではありません。また、主イエスが人ではなく家畜ならいいか、と送り込んだのでもありません。悪霊が入った結果、男がこれまで絶えてきた苦しみに、豚は耐えられずに呻きを挙げて、崖へと走った。それ程の苦しみを、この二人の男は抱えていたのです。 この二人の人にも家族がいたはずです。いつから墓場に追いやられたのかわからないけれど、昔は心配した友人もいただろうと思います。救ってほしいと願う男は、どんなに人々に嫌われ、不要な存在と思われようと、諦めずに主イエスのもとに来ました。今、悪霊から逃れたこの男の姿は、村の人々には目に映っているのでしょうか。そんなことよりも、死んでしまった豚の群れのために、迷惑だ、出て行ってほしいと人々は主イエスに告げているのです。

  命の選別など、人にはできません。神が作られた「人」という存在は、神にとって、「我が子よ」と呼ばれるものです。私たちは、その神の存在に気づき、神の救いが私の身に起きたことを知るとき、神に感謝するものになります。人が神に気づいて近づこうとする時、神は「我が子が帰って来た」と喜んでくださるお方です。そうした、神の目を通して私たち一人一人を見なければ、人の命の尊さなどわからないのです。あの人はいらない存在。あの人の能力は必要だからおいておこう。この理由で、あの人の命を優先しよう、などと人の価値で、命を見分けることなどできません。

  主イエスはこの時、神を信じない人々の地域では受け入れられないことや奇跡を起こしても、嫌われることをわかっていたのだと思います。自分には「枕することろもない」歩みが待っていることを知っていました。それでも、助けを求める人を救いに来たのです。この出来事の後は、ただ帰っていったことがわかります。(9:1)  主イエスのこの時の言葉は「行け」と一言だけです。悪霊とだってやりとりしたくなかった。この人を助けたら、村の人々とも話さずに帰りたかったかもしれない。でも、嵐の中、船に乗ってでも来なければならなかった。この人を救わなければならなかった。だから主イエスは海を渡って来たのです。

  人々からの批判を受けることをわかっていても、救い出さなければならないものがある。引き受けなくてはならないものがある。だから主イエスはこの男の元に来ました。

  救われた男は、神の祝福を受けたのです。人々からの厳しい目は変わらないでしょう。「あいつのせいで」と言われ続けるかもしれません。この村にいても、孤独な生活は変わらないかもしれません。けれども、この人の人生において決定的に違うことは、神が良しとして下さり生きるようになったということです。そのために主イエスが人々からの孤立も背負って救い出してくださいました。この人の人生の土台に、神の祝福ができました。人々には壊すことのできない、そして生涯この人を支え続ける力をもった祝福です。

  主イエスは人々の期待には全く応えない救い主です。でも人からの人気を集めること、支持を得ることが生きる指針、救いの指針にはなりません。神と主イエスにはあなたを救いだし、新たに歩ませる思いと力とにあふれています。その差し出される救いの御手に驚きと信頼をもって近づいていきましょう。