主日礼拝2021年7月18日
「あなたの罪は赦される」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書9章1~8節

[録音]

[録画]


  マタイ福音書は中風の人の癒された話を描きながらも、ここでの主題は主イエスの権威について記しています。

  「人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れてきた。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」 中風というのは、体が麻痺してしまい、自分で動くことができないような病を抱えます。そこで、この人を助けようと動いてくれる人がいました。仲間とも家族ともわかりません。主イエスは「その人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。

   その人たちの信仰とは、何をしたのでもありません。しかし主イエスにすがる思いで来ました。主イエスに近づいてきたのです。病を癒してくれるかもしれないという願いが叶うのか、まったく不確かで、わからない中です。でも、進んでみなければわからなかった。そこに進み出たということに、主イエスはその人たちの信仰を見たのです。

  主が言われたのは、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」でした。病ではなくて、罪が赦されると。当時の病は罰で、罪を犯した結果と思われていました。本人が一番そのことに苦しんでいたかもしれません。中風の人が特別罪深かったわけではありません。そして病が罪の結果では無い、ということは現代の私たちには当然理解できることです。病は誰もが成りえるものです。抱えているものです。罪も、誰もが抱えているものです。神に対して犯す罪は誰もが持っています。わたしたちは、この時、罪のことを全然気づいていないのです。見えていない。病とおなじように、罪も、私たち人は誰でも抱えている。罪は私たちの中に「ある」ものです。  

  だから病と罪が結び付けられて書かれています。病が罪の結果ではないのに、罪のことをここで言うのは、主イエスが人の中にある、病ではなく、罪を見ているからです。 ここから話は、癒しの出来事から、律法学者たちとの議論になっていきます。律法学者に対し、主イエスは『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいかと問われました。律法学者にも、誰にでも、「あなたの罪は赦される」と言うこと、宣言はできます。しかし、「起きて歩け」というのは、医者ではないので癒して歩かせることはできません。癒すことができてこそ、初めて言うことができる言葉です。癒すことはできなくても、宣言や執り成しはできるでしょう。病気を癒すよりも簡単だと主イエスは言っているのです。

  そして、ここでご自身を罪人の救い主としてあきらかにするために、主イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをしらせよう。」と言います。

  罪を赦す権威とは、主イエスご自身のことについて語られなければわからないことです。良い教え、癒し(良い医者)、良い指導者として主イエスは描かれてきました。しかし、主イエスが神であるということは問われてきませんでした。8章23節からの3つの話は、主イエスとはどういう方なのかというキリスト論について語られています。嵐を鎮め、悪霊を追い出し、罪の赦しをする方です。それを目の当たりにした人々は、百人隊長の僕を癒した時(8:5-)などには無い、問いと恐れの反応をします。

  罪を赦すことは、神の代理人にしかできないのです。そのことに光を当ててマタイはこの物語を記しています。だから、マルコ(2:1)やルカ福音書(5:17)には、運び手が4人いたこと、その人たちが、懸命に屋根から主イエスの前に中風の人をつり下ろしたこと等の人々の様子、執り成しの姿はマタイ福音書には書かれていません。

  神の代理人である主イエスは、私たちの罪を赦すことのできる方です。だから、罪の結果として現れる病も同時に癒されました。人にとっては目に見えない罪の赦しよりも、体の癒しの方が重要です。しかし、体の癒しは大したことではない。罪の癒しが重要なのだと主イエスは言っているのです。 罪の赦しの証拠は、私たちが起き上がることです。キリストとは、罪を抱え、動けないでいる私たちに罪の赦しを与え、再び立ち上がらせてくださる方です。