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5月, 2021の投稿を表示しています

礼拝説教5月30日

「山を下り、さぁ行こう」 マタイによる福音書8章1ー4節 小松 美樹 伝道師 [録音] [録画]    山上の説教が終わり主イエスとその周りについて行っていた大勢の群衆が、山から下りてきました。山の上では天の国についての話や天の父について、天の国に入る者の話を聞いてきました。神の目には、人が、私自身がどのように映っているのかを知り、神の赦しの中に生きている者であるということを、主イエスに教えられました。山の上という所は、聖書では、神がご自身を現される場所として描かれることが多くあります。主イエスが一人祈られた場所でもあり、マタイ福音書では福音書の中心の教えが成された場所でもあります。山の上で崇高な教えを聞き、今で言う修養会・リトリートが終わって日常へと戻って来たのです。    山を下りて最初に待っていたのは、「重い皮膚病を患っている人」でした。当時の病には「触れてはいけない」、「汚れ」などの規定がありました(レビ記13章)。山を下りてきた一行は、新しい教えを受けたばかりの者です。目の前に起きた状況にどうするのだろうか。避けるべきかと戸惑い迷っている間に、主イエスはその人に触れられました。本当は避けなければならないのでしょう。しかし、主イエスは、その病がどのように規定されているかでも、病気を見るのでもなく、「この人を助けなくては」という思いで触れられたのでしょう。重い皮膚病患者として隔離されていたから、久しぶりに人に触れられた。「汚れた者」という目ではなく、一人の救いを求める人として主イエスは見ています。    重い皮膚病を患っている人への救いは、清められるだけに留まりませんでした。「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を捧げて、人々に証明しなさい。」と、もう皮膚病と隔離された生活から解放されるために、祭司に見せて「あなたは清い」と言い渡してもらい、捧げものする。それは礼拝する者へとしてくださっています。  主イエスは律法を完成させるために来られた方です(5:17)。それが私たちの救いの始まりになるからです。救いが始まるというのは、礼拝する者になるということです。救われた人として、本来の人としての姿を取り戻して歩む時、私たち一人一人に触れてくださる主イエスの愛の温もりを身にまとって歩むのです。  

礼拝説教5月23日

「語り出した人々」 使徒言行録2章1ー13 節 石丸 泰信 先生 [録音] [録画] 今日はペンテコステ、聖霊降臨を祝う礼拝です。けれども、聖霊といわれてもよく分からないという声を聞くことがあります。聖霊は「わたしたちを通して」働かれる方です。だから、わたしたちを見れば分かるはずです。けれどもピンと来ない。その理由は聖霊の働きが多種多様であるからだと思います。 聖霊はマリアに子を宿し、パウロに旅を促したり、中断させたりもしました。今日の箇所もそうです。 「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」 と言います。この日はユダヤの五旬祭で世界中からエルサレムに人々は集まっていました。そこで自分の国の言葉で為される説教を聞いたのです。 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」 と言います。ガリラヤの人たちに簡単に習得できる言語ではないということです。それなのに 「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」 。   聖霊は主イエスの弟子たちを通して働かれました。そして人々は混乱しました。聖霊の働きかけというのは、基本的に混乱を引き起こすのだと思います。マリアは疑いの目で見られました。今日の箇所でも母国語での説教を聞いて驚き喜ぶ人、反対に酒に酔っているだけだろうと嘲る人に分かれました。聖霊の働きは喜ばしい出来事ばかりではなく、混乱をも引き起こします。けれども、聖書は、後で、ああ、こういうことであったのだと証言しています。つまり聖霊の働きは大きすぎて、すぐには受け止められないものなのだと思います。   聖書の 「聖霊」 は「風」とも訳すことのできる言葉です。風はどこかどこへ、なぜ吹いているのか、つかみ所の無いものです。そこが霊に似ています。風は、時に人を喜ばせますが、混乱をも引き起こします。涼しさをもたらしたり、反対に嵐になったりもします。風も聖霊も「やめてください」と願っても聞いてはくれません。しかし、そうやって、自分こそ「すべてをコントロールできる主人である」という勘違いを終わらせてくれるのだと思います。  聖書には、「時」という言葉が2つあります。一つは「クロノス」。もう一つは「カイロス」です。「クロノス」は川の水のように留まることなく流れ続ける時間のことです。「

礼拝説教5月16日

「人生の土台」 マタイによる福音書 7章 24ー29節 小松 美樹 伝道師 [録音] [録画]     11月から約半年の間、山上の説教に耳を傾けてきました。その最後は「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」。 揺らぐことのない確かな道を歩むこと。生きる指針を受け取った、確かなものを見つめている人のことです。もう一つ言われているのは「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」この2つは建っているもの、その見た目は変わらない同じものです。けれども同じ災難や出来事にあっても、倒れなかった方と倒れ方がひどかったものがある。それは土台が違うからです。何の上に建てたのか、ということが言われています。   岩の上に家を建てた、その岩は主イエスの言葉であり、神の御心、御意志です。私次第ではない、「神がこうおっしゃるから」、「御言葉ですからそうしてみよう」と行う生き方です。もしそのようにできるなら、主イエスが言っていた「地の塩、世の光」(5:13)として生きることであり、素晴らしい信仰と行いです。しかし、「雨が降り、川があふれ…」という災害のようなことが1度ではなく2度3度起きたらどうでしょう。何度もひどい仕打ちをされる。何度無視されても「しかし、主の御言葉通りに」という思いは、最初は強く持てたとしても、繰り返されると辛くて、もうやめようかなと思う。岩を土台としていたつもりが、実はその下は砂で、足元が揺らぐかもしれません。  ちょっとくらいの荒波や困難は乗り越えられるかもしれない。でも聖書の「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」。この言葉に大きな災害を思い起こす方もいるかもしれません。東日本を襲った地震は私たちの想定内にあったものをことごとく崩しました。津波はあらゆるものをなぎ倒し、激流が建物と町中を襲いました。それだけでなく、思い出も、生活も、大切な人も失いました。その光景を目の前にした人たちは、絶望的だった。自分の心も流されてしまったように思ったでしょう。そのような出来事に見舞われた時、岩の上に建ち続けられるのだろうかと思います。けれども聖書が語る「襲ってくる

礼拝説教5月9日

「最後の日のこと」 マタイによる福音書 7章21ー23節 小松 美樹 伝道師 [録音] [録画]   山上の説教の終わりの段落に語られているのは「行い」についてです。   「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」イエスを主と呼ぶ人々のことが言われています。今で言えば、教会にいる人、私たちに向けて語られています。『主よ、』と呼ぶには、絶対的な信頼を持っていなければ呼べません。絶対的な存在として自分自身の中心に迎える存在です。そう思っていた。しかし、自分自身の思いを実現するための存在として主を呼ぶ者がいるというのです。「主の名」を呼んでいるように見えて、自分の願いのために「主よ」と呼んでいると言われています。   「かの日」それは神の国の完成の時で、「終わりの日」「主イエスが再び来られるとき」。そのときには天の国に入るものとそうでない者とを分ける時がきます。そこで「御名によって、○○したではありませんか」と言うのは、不法を働く者と変わらない、と言われるのです。なぜそこまで厳しく言うのか。私たちが主の名を呼ぶように見えて、間違っていることに気がつかないからです。それは、私たちを支える信仰にはならないのです。だからきっぱりと、今言われるのです。そうなる前に「御心を行うものになりなさい」と。   この話の背景にあると思われる、よく似た言葉がエレミヤ書7章1—11節あります。当時、イスラエルの民は生活の基盤が崩されるような中にありました。自分自身の生活の基盤が崩されてゆくような出来事に合う時、「あなたの信仰はそれに耐えていけるのか」と問われているのだと思います。   「主の神殿、主の神殿、主の神殿という虚しい言葉により頼んではならない。」(エレミヤ7:4)主の神殿にしがみつく思いは一見して神への敬虔な信仰者の姿に見えます。しかし、生ける神との関係を捨てた、自己中心の願望があるというのです。主の神殿さえあれば大丈夫というのは、生ける神への信仰とは違いました。主の名の置かれた神殿にしがみついてはいても、そこで「主の名」を呼んではいないのです。臨在する神に、私たちの中心を明け渡していない姿であり、自分の安全と利益を中心とした姿。「虚しい言葉」(エレミヤ7:4、8)は救う力を持ちません。その正体は「自己中心」です。「盗み

礼拝説教5月2日

「結び」 マタイによる福音書 7章15ー20節 小松 美樹 伝道師 [録音] [録画]  「偽預言者を警戒しなさい」という警告の言葉から始まりました。聖書には神の言葉を預かり、人々に伝える預言者のことが記されています。しかし、偽預言者と言われる、神の言葉を伝えるようにみえて、そうではない言葉を語る人がいた。今でも偽物の言葉と本物の言葉と、私たちは様々な言葉に囲まれて、それに左右されながら生活をしています。神は厳しい言葉も言われる方で、楽な方へと行きなさいと言われる方ではありません。本物は不快なことも言います。裁きの言葉も語ります「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」。私たちを見ている神がいて、これまでの行いは、最後には裁かれると言います。裁きが怖いから聖書に書いてあることを守ろうと言うのではありません。何度失敗しても、間違えを犯しても、赦しを与えてくださる神がいる。「我が子よ」と言ってくださる神の愛に応えて生きる。そこにこそ、真理の生きる道がある。だから、間違った方向には行かせないために、厳しい言葉も語ります。    どんな実を結ぶのか。その実は何に繋がり、結ばれているのか。そのことに重点があり、良い木に結ばれるものになりなさいとあります。  「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」。植物が咲くこと、実ることを待つ時間があります。大切に世話をしている人は、花がつかなかったからと言って、悪いものだとは思わないでしょう。いつ咲くかと待っています。待っている人は、良い木だからきっと良い実がなると知っています。神はそういう視点を持っている方です。実を見て判断するのではなく、まだ実が成っていなくとも、「良い木なのだから」と言って、必ず良い実が成るのを待っておられる方です。  「子を見て、親がわかる」と言いますが、実をみて判断することは一般的な見方です。神は違うのだと主イエスは言います。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」とは、木が良いから、必ず良い実を結ぶというのです。「必ず」ということは待つことです。  去年、教会のオリーブの木に実が沢山成りました。それまでずっと実がつくことはなかったそうです。最初は「育ってくれさえすれば良い」そう思っていたかもしれません。そのうち成長すると、他