礼拝説教5月23日

「語り出した人々」
使徒言行録2章1ー13 節
石丸 泰信 先生

[録画]

今日はペンテコステ、聖霊降臨を祝う礼拝です。けれども、聖霊といわれてもよく分からないという声を聞くことがあります。聖霊は「わたしたちを通して」働かれる方です。だから、わたしたちを見れば分かるはずです。けれどもピンと来ない。その理由は聖霊の働きが多種多様であるからだと思います。 聖霊はマリアに子を宿し、パウロに旅を促したり、中断させたりもしました。今日の箇所もそうです。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言います。この日はユダヤの五旬祭で世界中からエルサレムに人々は集まっていました。そこで自分の国の言葉で為される説教を聞いたのです。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」と言います。ガリラヤの人たちに簡単に習得できる言語ではないということです。それなのに「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。 
 聖霊は主イエスの弟子たちを通して働かれました。そして人々は混乱しました。聖霊の働きかけというのは、基本的に混乱を引き起こすのだと思います。マリアは疑いの目で見られました。今日の箇所でも母国語での説教を聞いて驚き喜ぶ人、反対に酒に酔っているだけだろうと嘲る人に分かれました。聖霊の働きは喜ばしい出来事ばかりではなく、混乱をも引き起こします。けれども、聖書は、後で、ああ、こういうことであったのだと証言しています。つまり聖霊の働きは大きすぎて、すぐには受け止められないものなのだと思います。
  聖書の「聖霊」は「風」とも訳すことのできる言葉です。風はどこかどこへ、なぜ吹いているのか、つかみ所の無いものです。そこが霊に似ています。風は、時に人を喜ばせますが、混乱をも引き起こします。涼しさをもたらしたり、反対に嵐になったりもします。風も聖霊も「やめてください」と願っても聞いてはくれません。しかし、そうやって、自分こそ「すべてをコントロールできる主人である」という勘違いを終わらせてくれるのだと思います。
 聖書には、「時」という言葉が2つあります。一つは「クロノス」。もう一つは「カイロス」です。「クロノス」は川の水のように留まることなく流れ続ける時間のことです。「カイロス」は、そこに介入してくる時間です。待ち合わせをして友人が到着した「時」。子どもが生まれた「時」。喜ばしいことばかりではありません。お茶をこぼしてしまった「時」、喪う「時」。これもカイロスです。カイロスは「神の時」だとも言われます。クロノスの中に生きるわたしたちに風が吹いて、その計画を崩しに来るのが「カイロス」、つまり「聖霊」の働きなのです。 
 わたしたちは「クロノス」という時間を支配することができます。時計を見て開始と終了の時間を決め、スケジュール帳を隙間なく埋めることができます。そして、つい自分が主人になった気持ち、神のようになった気になってしまう。しかし、そこに支配できないカイロスが「ふらり」と介入してくるわけです。子どもの発熱やネットの回線が切れたり、突然の来客であったり。簡単にわたしたちの計画は崩れ、足踏み状態にされます。けれども、そこに聖霊の介入という出来事を見るのがキリスト者です。聖書は、この「ふらり」という出来事の中に聖なるものがあることを知っています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブライ人への手紙13:2)。人は気がつかない間に、聖なるものに触れているのです。
 ある人は言います。大切な仕事で忙しくしていたとき、「庭の青虫を見てくれ、見てくれ」と子どもが煩かった。けれども、あまりにしつこいので仕方なく見に行った。そして見事な青虫であった、と。その時の大切な仕事のクライアントが誰であったかも今では思い出せないけれども、その時に見た青虫の美しさ、その時の息子との会話は、すべて覚えていると言います。大切なことは、だいたい自分の計画外のところで起こります。「聖霊」の働きは、その時は、ただの邪魔、混乱です。しかし、後になって分かる。しかし、なぜ混乱なのか。それは、自分の支配する計画=クロノスの中だけに生きるわたしたちを救い出そうとしているからです。自分の計画通りだと思うとき、つい、自分は正しく、自分こそ正義・善だと思ってしまいます。そこから救い出してくれるのです。クロノスの中だけに生きると、すべては機械のように、周りの人はモノの様に振る舞うべきだと思ってしまいます。 
 風のように「ふらり」とやって来る聖霊・カイロスは、その計画を崩してくれる誰かを連れてきます。聖霊は、わたしたちを通して働きます。それは、赤ん坊であるとか、お茶をこぼしてしまう人であるとか、あるいは自分自身かは分かりません。しかし、そうやって出来事を起こし、わたしたちを人間に戻してくれます。ペンテコステは、混乱から始まりました。しかし、それを神の偉大な御業だと人々は語り出しました。その時と同じ風、同じ霊がわたしたちにも吹いています。