礼拝説教5月30日

「山を下り、さぁ行こう」
マタイによる福音書8章1ー4節
小松 美樹 伝道師

[録画]


   山上の説教が終わり主イエスとその周りについて行っていた大勢の群衆が、山から下りてきました。山の上では天の国についての話や天の父について、天の国に入る者の話を聞いてきました。神の目には、人が、私自身がどのように映っているのかを知り、神の赦しの中に生きている者であるということを、主イエスに教えられました。山の上という所は、聖書では、神がご自身を現される場所として描かれることが多くあります。主イエスが一人祈られた場所でもあり、マタイ福音書では福音書の中心の教えが成された場所でもあります。山の上で崇高な教えを聞き、今で言う修養会・リトリートが終わって日常へと戻って来たのです。

   山を下りて最初に待っていたのは、「重い皮膚病を患っている人」でした。当時の病には「触れてはいけない」、「汚れ」などの規定がありました(レビ記13章)。山を下りてきた一行は、新しい教えを受けたばかりの者です。目の前に起きた状況にどうするのだろうか。避けるべきかと戸惑い迷っている間に、主イエスはその人に触れられました。本当は避けなければならないのでしょう。しかし、主イエスは、その病がどのように規定されているかでも、病気を見るのでもなく、「この人を助けなくては」という思いで触れられたのでしょう。重い皮膚病患者として隔離されていたから、久しぶりに人に触れられた。「汚れた者」という目ではなく、一人の救いを求める人として主イエスは見ています。

   重い皮膚病を患っている人への救いは、清められるだけに留まりませんでした。「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を捧げて、人々に証明しなさい。」と、もう皮膚病と隔離された生活から解放されるために、祭司に見せて「あなたは清い」と言い渡してもらい、捧げものする。それは礼拝する者へとしてくださっています。  主イエスは律法を完成させるために来られた方です(5:17)。それが私たちの救いの始まりになるからです。救いが始まるというのは、礼拝する者になるということです。救われた人として、本来の人としての姿を取り戻して歩む時、私たち一人一人に触れてくださる主イエスの愛の温もりを身にまとって歩むのです。

   山の上での教えは、この現実に向かうためのものです。崇高な教えを聞いて、それを身にまとい、目の前にやってくる現実と困難を寄せ付けないように歩むのではありません。厳しい現実に目を向けて歩むのです。主イエスの奇跡にばかり目を奪われることは救いの真髄を知らないのと同じです。主イエスの十字架の死の現実と罪が赦されたという、私たち自身の罪人である姿から目を逸らしては、神の愛と赦しを知って歩むことにはなりません。自分の都合の良いことしか目に入らなければ、日常に起こる出来事に立ち向かえません。

   キャンプや旅行など、非日常を味わう時、日常に戻ることが嫌に思う時があります。しかし、非日常で経験したことを今目の前にある現実から目を逸らさずに、「ここでも私は行う」。それが山上の説教です。

   礼拝が私たちの「山の上」です。神に新しく出会い、神の言葉を聞き、神に従う、人の本来の姿を取り戻す場所です。礼拝が終わり、階段を下りて礼拝堂を後にします。それぞれの置かれた場所へと向かっていきます。「ただいま」と帰ったら、家のこと、体調のこと、家庭の問題、学校のこと、お金のこと、、、日常が待っています。山の上での主イエスの教えを身にまとい、向かっていきましょう。