礼拝説教5月9日

「最後の日のこと」
マタイによる福音書 7章21ー23節
小松 美樹 伝道師

[録画]


  山上の説教の終わりの段落に語られているのは「行い」についてです。

 「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」イエスを主と呼ぶ人々のことが言われています。今で言えば、教会にいる人、私たちに向けて語られています。『主よ、』と呼ぶには、絶対的な信頼を持っていなければ呼べません。絶対的な存在として自分自身の中心に迎える存在です。そう思っていた。しかし、自分自身の思いを実現するための存在として主を呼ぶ者がいるというのです。「主の名」を呼んでいるように見えて、自分の願いのために「主よ」と呼んでいると言われています。

 「かの日」それは神の国の完成の時で、「終わりの日」「主イエスが再び来られるとき」。そのときには天の国に入るものとそうでない者とを分ける時がきます。そこで「御名によって、○○したではありませんか」と言うのは、不法を働く者と変わらない、と言われるのです。なぜそこまで厳しく言うのか。私たちが主の名を呼ぶように見えて、間違っていることに気がつかないからです。それは、私たちを支える信仰にはならないのです。だからきっぱりと、今言われるのです。そうなる前に「御心を行うものになりなさい」と。

 この話の背景にあると思われる、よく似た言葉がエレミヤ書7章1—11節あります。当時、イスラエルの民は生活の基盤が崩されるような中にありました。自分自身の生活の基盤が崩されてゆくような出来事に合う時、「あなたの信仰はそれに耐えていけるのか」と問われているのだと思います。

 「主の神殿、主の神殿、主の神殿という虚しい言葉により頼んではならない。」(エレミヤ7:4)主の神殿にしがみつく思いは一見して神への敬虔な信仰者の姿に見えます。しかし、生ける神との関係を捨てた、自己中心の願望があるというのです。主の神殿さえあれば大丈夫というのは、生ける神への信仰とは違いました。主の名の置かれた神殿にしがみついてはいても、そこで「主の名」を呼んではいないのです。臨在する神に、私たちの中心を明け渡していない姿であり、自分の安全と利益を中心とした姿。「虚しい言葉」(エレミヤ7:4、8)は救う力を持ちません。その正体は「自己中心」です。「盗み、殺し、姦淫し、…この神殿にきてわたしの前に立ち、『救われた』というのか。」(エレミヤ7:9)。どんなにその場その場において自分の思いが満たされようとも、自分の求めや願い、安全が守られたところで、それは人生に起きる様々な出来事や困難から、救う力を持ちません。

 山上の説教は十戒を背景に語られます。主イエスはこれまでの十戒の理解を、規律に縛られたものでなく、本来の生ける神との関係を取り戻すために教えておられます。

 主イエスの教えがわたしたちの中に響いていること。その教えに聞き従うこと。つまり行いが、生活の中で実践されていくこと。そのこと無しには、どんなに「主よ、主よ、」と呼んでも、主の教えを理解し、御心を行うものではないというのです。

 家庭や仕事で、「わかりました。」と言っても、言われたことをやらなければ、理解していないと見なされます。あの人のためにこれをやりたい、これが必要だからやるのだ、と思う時、心も体も1つになって、動くことができる。また、人を助けたい。でもできなかった。その時心も体も、そのことで動揺をしたり、悲しむ。思いと行動が伴います。

 「主イエスを信じます」けれども、自分の思いが叶いますように。と思う時、私の思いが前面にある。すると主イエスは「あなたは私と共にいるように見えて、共にいなかったではないか」と言う。信仰者として生活してきたのに。教会のために尽くしてきたのに。神様の御名ために生きているから救われる。報われる。そのように思っていたのに。神は報いてくれないのか?と思う、そのような信仰では、私たちは耐えていかれません。あなたの神はどこにいるのか?中心にいないのではないか?と問われています。

 主イエスが言われているのは、『主よ、主よ、』と言って、私たちが虚しく主イエスの名を呼んではいないか、御心を行う者になってほしいという勧告です。

 私たちが持つべき信頼は、主の名による神殿、目に見える場所ではありません。祈りと礼拝によって、臨在する神との生きた関係を持つのです。私たちの生活の中心を明け渡し、主の言葉によって、どんな時代にあっても、どんな困難にあっても立ち上がることができる神の言葉に依り頼む。それが、イエス・キリストを主と呼ぶものです。