礼拝説教5月2日

「結び」 マタイによる福音書 7章15ー20節
小松 美樹 伝道師

[録画]

 「偽預言者を警戒しなさい」という警告の言葉から始まりました。聖書には神の言葉を預かり、人々に伝える預言者のことが記されています。しかし、偽預言者と言われる、神の言葉を伝えるようにみえて、そうではない言葉を語る人がいた。今でも偽物の言葉と本物の言葉と、私たちは様々な言葉に囲まれて、それに左右されながら生活をしています。神は厳しい言葉も言われる方で、楽な方へと行きなさいと言われる方ではありません。本物は不快なことも言います。裁きの言葉も語ります「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」。私たちを見ている神がいて、これまでの行いは、最後には裁かれると言います。裁きが怖いから聖書に書いてあることを守ろうと言うのではありません。何度失敗しても、間違えを犯しても、赦しを与えてくださる神がいる。「我が子よ」と言ってくださる神の愛に応えて生きる。そこにこそ、真理の生きる道がある。だから、間違った方向には行かせないために、厳しい言葉も語ります。

   どんな実を結ぶのか。その実は何に繋がり、結ばれているのか。そのことに重点があり、良い木に結ばれるものになりなさいとあります。

 「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」。植物が咲くこと、実ることを待つ時間があります。大切に世話をしている人は、花がつかなかったからと言って、悪いものだとは思わないでしょう。いつ咲くかと待っています。待っている人は、良い木だからきっと良い実がなると知っています。神はそういう視点を持っている方です。実を見て判断するのではなく、まだ実が成っていなくとも、「良い木なのだから」と言って、必ず良い実が成るのを待っておられる方です。

 「子を見て、親がわかる」と言いますが、実をみて判断することは一般的な見方です。神は違うのだと主イエスは言います。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」とは、木が良いから、必ず良い実を結ぶというのです。「必ず」ということは待つことです。

 去年、教会のオリーブの木に実が沢山成りました。それまでずっと実がつくことはなかったそうです。最初は「育ってくれさえすれば良い」そう思っていたかもしれません。そのうち成長すると、他と比べてここが劣っていると思うようになり、更には誰もが認める立派な実りを見せなければ欠陥品のように思えてしまう。けれども実を結ぶのにはそれぞれのペースがあります。あとどれくらい待てばいいのですか?と聞いてわかれば楽です。10年に1度しか実を結ばないものもあります。「実」は人の例えですが、実る時というのは、それぞれに時期が違うのです。他の人と自分は違う。実が駄目なのではなく、時期が違うのです。

   私たちが不安を覚える時というのは、自分が何に繋がっているか見えなくなっている時ではないかと思います。自分の将来が見えない時、仕事の先行きが見えない時、進路が途絶えた時、どこにも結ばれてない、繋がっている保証が見えない時。それは自分自身が木のように思っているのです。しかし、私たち自身がしっかり地に足をつけて立つものではないのです。

 私が自分の子どもに対して「うちの子は○○ができなかった。駄目だった。」と思う時は、その子どもが親である私という木につながる子(実)を見ている時です。しかし、聖書が語るのはそうではありません。私の手を離れ、神が育てていてくださる子。救い主であるイエス・キリストに繋がっている子ども。親に連なる枝になる実ではありません。自分の手を離れたところで、友だちや教会の人たちと関係を結ぶ子の姿を見たとき、「この子は大丈夫だ。神さまに結ばれた実である」と安心できるのだと思います。幼子だけでなく、年を重ねてから教会に来て、聖書の言葉を聞き、洗礼を受けたいと願う。実りとは、自立した時ではなく、親になったからでもなく、教会に連なる時、初めて実るのです。

   一人一人時期が違います。自分の生きている間に実がつくのを見届けられないこともある。それでも「必ず良い実を結ぶ」と希望を持ち続けることができる。木が良い木であるからです。神はゆっくりでも実るのを待っていてくださいます。

 私たちの毎日の生き方に、注意しなさいと言われます。誰の言葉を聞いて生きるのか。敵を憎み、されたことへの復讐心や怒りを持って、自分自身の貪欲さに捕われて生きるのではなく、主の御心に適った生き方へと招かれていること。主イエスによって、私たちのこれまでの行いも思いも全て赦されている、そのことを信じる時、私たちを真理の言葉に連らなる実とならせてくださいます。