礼拝説教5月16日

「人生の土台」
マタイによる福音書 7章 24ー29節
小松 美樹 伝道師

[録画]


    11月から約半年の間、山上の説教に耳を傾けてきました。その最後は「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」。
揺らぐことのない確かな道を歩むこと。生きる指針を受け取った、確かなものを見つめている人のことです。もう一つ言われているのは「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」この2つは建っているもの、その見た目は変わらない同じものです。けれども同じ災難や出来事にあっても、倒れなかった方と倒れ方がひどかったものがある。それは土台が違うからです。何の上に建てたのか、ということが言われています。
 
岩の上に家を建てた、その岩は主イエスの言葉であり、神の御心、御意志です。私次第ではない、「神がこうおっしゃるから」、「御言葉ですからそうしてみよう」と行う生き方です。もしそのようにできるなら、主イエスが言っていた「地の塩、世の光」(5:13)として生きることであり、素晴らしい信仰と行いです。しかし、「雨が降り、川があふれ…」という災害のようなことが1度ではなく2度3度起きたらどうでしょう。何度もひどい仕打ちをされる。何度無視されても「しかし、主の御言葉通りに」という思いは、最初は強く持てたとしても、繰り返されると辛くて、もうやめようかなと思う。岩を土台としていたつもりが、実はその下は砂で、足元が揺らぐかもしれません。

 ちょっとくらいの荒波や困難は乗り越えられるかもしれない。でも聖書の「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」。この言葉に大きな災害を思い起こす方もいるかもしれません。東日本を襲った地震は私たちの想定内にあったものをことごとく崩しました。津波はあらゆるものをなぎ倒し、激流が建物と町中を襲いました。それだけでなく、思い出も、生活も、大切な人も失いました。その光景を目の前にした人たちは、絶望的だった。自分の心も流されてしまったように思ったでしょう。そのような出来事に見舞われた時、岩の上に建ち続けられるのだろうかと思います。けれども聖書が語る「襲ってくるもの」は、もっと激しいものです。終わりの日、終末に起きる出来事です。どのようになるのかはっきりわかりませんが、天地がひっくり返るような大きな出来事です。全てが崩され、世界が揺らぐほどの激流に襲われる。

  しかし、そこに残るものがあります。神の言葉です。そして神の言葉によって建てられた教会です。「これらの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」主イエスの言葉を土台にして生きるところには何度襲ってくる難にも倒れません。教会は「集められたもの」という意味です。建物のことを指して言うのではありません。たとえこの向河原教会が何度水害にあい、ボロボロになって、最後に建物も朽ち果てたとしても、残るものがあります。それは集う場所をなくしても、しばらく集まることができなくなったとしても、失われることのない、教会が残ります。岩の上に建っている信仰者が神に呼ばれて集まってくるのです。

 ヤコブの手紙1章22節の教会の年度聖句は「御言葉を行う人になりなさい」です。
御言葉を「聞いて行わないもの」「すぐに忘れてしまう」のは「砂」の上に建てる人のことであり、「一心に見つめ、守る人」は御言葉から動かない「岩」の上に建つ人です。  これらの主イエスの教えは神を信じるユダヤ人たちに向かって教えられていたものです。
 聞いたあなたがたは、「これらの言葉を聞いて行う者」になりなさい。と言われます。これまで大切に守ってきた律法。これさえ守っていれば救われると思っていた土台を換えなければならないと言われたのです。主イエスを聞いているから安心と思っている私たちも全員乗り換えが必要です。

 ルカ福音書の6章46節には「言葉を聞き行う人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置く…。」と言われます。建築は土台を深く掘り、見えない部分で支えています。岩の上に立てるには、深く掘り、周りからは見えないところまで低くへりくだらなければならないだと思います。それも1度だけではなく何度も。
 主イエスの言葉を見つめることは、自分の考えを第一にしていてはできないことです。主の言葉を見つめ、その上に立とうとする時、主が教えてくださった祈りを見つめることになると思います。その言葉に留まろとする時、主の祈り無くして留まれなない。その時、岩を土台としようとしているのです。私たちが一心に見つめるのは神の言葉です。