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礼拝説教1月31日

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「平和のための、踏みとどまり」 小松美樹 伝道師 マタイによる福音書5章38ー42節   「目には目を、歯には歯を」 とは、際限なく復讐や報復をさせないためのものです。目を奪われたなら、目までで留めなさい。歯を折られたならば、歯を折ることで留めなさい。それ以上の報復を行って、お互いに傷つけ合ってはいけない。そのようにしてこの法律はつくられ、古代の人々の間で広く受け入れられていました。 けれども、主イエスは更に、負の連鎖の断ち切りのために 「悪人に手向かってはならない」 と言います。 左の頰も向けて、差し出してやりなさい 。 手向かわずに堪えるようにと言います。叩き返さなかったとしても、心は「何するの!」と攻撃的になるでしょう。それでも、反対の頬を差し出すのです。  また 「下着を取ろうとするものには上着をも取らせなさい。」 と言います。何着も持っている中から、「これならどうぞ」というものではありません。「下着」は、現代とは少し違い、足先まで届く長い衣でした。その上に上着を着る。上着はマントのようで、毛布のかわりでもありました。何枚も所有していません。旧約聖書には、上着を質にとっても、夕方までには返すようにと定められています(出エジプト 22:26 )。奪うことのできない権利です。けれども主イエスは、その権利も求めるものには取らせてしまうようにと言います。自分の物、価値ある物、自分の権利と主張しても良いはずのものです。しかし、当然の権利も主張してはならないと言うのです。  私たちの生活には損得感情が付きまとうものだと思います。赦しの程度は、自分にとって、大したことでなければ赦すことは簡単で、痛くもかゆくのない出来事なら忘れられます。でも痛みがあって、こんなに損をしたと思えば、赦すことは難しくなります。   今日の聖書を聞いて、馬鹿馬鹿しく思ったり、上着をあげられるのは裕福な人だけだと思うかもしれません。 けれども聖書は、 私たちは元々何も持っていなかったはずじゃないかと言います。全ては神から始まり、神から与えられている。けれどもいつのまにか自分で頑張って得たもの、認められたから得たもの、努力の上に成り立つ生活という考えにすり替わっているのです。

礼拝説教1月24日

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「言葉の真実」石丸 泰信 牧師 マタイによる福音書5章33ー37節   「誓い」 という言葉は日常的ではないかも知れません。しかし、教会は大切にしています。結婚式での誓約、洗礼式、就任式、転会式が教会にはあります。そして、その時、私たちは進んで、神の名によって誓約をいたします。しかし、「 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない」 と主イエスは言われます。どういうことでしょうか。   そもそも誓いというのは、私たちの行う約束を保証する言葉なのだと思います。だから、神の名によって誓い、神の名を汚さぬよう、守ることを約束するということです。ただし、約束の際、問題となるのは、自分の名誉だけでありません。神の名誉に掛かっているということです。けれども、主イエスは続けて言われます。 「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である・・・」 。どういうことでしょうか。   多くの学者は、この言葉の背景には十戒の第三戒があると見ています。「神の名をみだりにとなえてはならない」です。この戒めを当時、神の名を軽々しく、自分の利益のために使ってはならないという意味で受け取られました。そのため、神の名を持ちだして誓うのではなく、神がおられる 「天」 や、神が造られた 「地」 が神の名の代用として使われました。十戒を重んじる敬虔な信仰の態度が、この言葉遣いにあるわけです。しかし、主は言われます。 「天にかけて誓ってはならない」 。昔の人々は、神の名を避ければ、良いと思っていましたが、主は、神の名を他に言い換えても同じだと言われたわけです。   私たちの行うこと、一つひとつに誓いを立てて有言実行して行くことは一件、誠実そうに見えます。しかし、そのどれもが上手くいくわけではないことを私たちも知っています。誓いを果たすことが第一になった人は、恐らく、その失敗を人のせい、何かのせいにするでしょう。立てた誓いを守るために、嘘をつき、ごまかし、人のせいにしていては、そこに本当の誠実さは無いのだと思います。主イエスが 「一切誓いを立ててはならない」 と言われるとき、誠実さとは「あなたが立てた誓いに生きるこ

礼拝説教1月17日

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「律法に込められた神の眼差し」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書5章27ー32節  山上の説教の言葉を聞いていると、「律法」(十戒)とは、単なる規則ではないことに気がつかされます。規則として読めば、「私は、これは守れている。これは守れていない」と自己評価の物差しとなります。しかし、それは神を信じていなくてもできることです。律法は単なる規則ではありません。一つひとつの言葉に神の眼差しが注がれています。喜びの眼差し、悲しみの眼差し。それを受け止め、信じることなしでは、律法を通して神を知り、また自分を知ることはできません。  主イエスは言います。 「あなたがたも聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」 。端的に言えば、姦淫とは結婚生活の破壊です。神が結ばれた関係を破壊するな。それを主イエスは、それは、あなた方も聞いているでしょう、と言われました。これは、規則として知っているでしょうということです。そして、 「しかし、わたしは言っておく」 という言葉で続けます。「この言葉の中に、どんなに神の悲しみが込められているのか言っておく」ということです。    ここで主は「心の中」のことを指摘されます。しかし、心の中のことまで言われてしまうと、もう意味を為さない戒めになってしまうような気がします。誰もが守れるようで誰も守れない。だから、ある意味、「はいはい」と言って片付けられてしまう戒めに聞こえます。しかし、これも規則としての受け取り方なのだと思います。  神は、どうして心の中にまで踏み込んで来られるのでしょう。それは、所詮、心の中のこと、小さな事だと私たちが感じ、片付けてしまう所にこそ、「根」がもう伸びているからです。 「・・・もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」 。とても大袈裟に聞こえます。しかし、それは神の眼差しと、私たちの感覚との温度差なのだと思います。もし身体の中に癌が見つかったら、すぐに病院に行きます。そして切ったら治ると言われれば、「今すぐに切ってください」と言うと思います。命の方が大事だからです。同じ思いで神はご覧になっています。

礼拝説教1月10日

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「一番最初に仲直り」 小松美樹 伝道師 マタイによる福音書5章21ー26節  5章から始まった、主イエスの山上の説教と呼ばれる箇所を読んでいます。主イエスは旧約聖書で与えられた律法は、主ご自身によって完成するのだと言われます。十戒の第六戒「殺してはならない」はよくわかります。しかし、腹を立てたり、人を罵る言葉を言っても裁かれると言われました。だから、礼拝を捧げる前に和解をしなさいというのです。争いごとを隠したままで、礼拝で祈る「主の祈り」の「我らがゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ。」とは祈れないのです。  わたしたちは、赦すような関係になる前に、怒ることや、イライラする苦手な相手とは距離をとり、うまく付き合っていこうとします。けれどもそれは、徐々に相手に無関心になり、関係が壊れることへと繋がります。また、法に定められているものを守っていれば、処罰されません。よからぬ事を考えても、行動に移さなければ犯罪にはならないはずです。それならば個人的な問題であって、自分自身で判断することができます。考えるだけなら咎められるはずのない、そのことにも、神との関係の中では、そのままにしておくことができないのです。怒りを覚えているとき、神を覚えているでしょうか。主イエスの赦しを覚えているでしょうか。そうゆうことが、抜け落ちて、相手を非難しているのではないでしょうか。  聖書で言う罪は、人の内側から湧いてくる「私が神になりたい」という思いや「私に命令する神なんていらない」という自分以上のもの、存在、権威を認めない思いを言います。小さな子どもでも、誰に教わるのでもなく、兄弟や人をねたむ思いが出てきます。何の罪もない人などいないと聖書は言います。十字架の上で主イエスが死なれたのは、すべての人の赦しのためであり、わたしたちと神との関係の執り成しのためでした。そうして赦されて生きるわたしたちのいのちは、怒りを抱えて生きるような、制限のない縛りや虚しさの奴隷になってはいけないと言うのです  礼拝への招きに応えるように、わたしたちは神の下に集まります。でも、赦せない人、排除した人がいる、そのことを今、礼拝の中で聞く、神の言葉によって思い出します。「まず行って兄弟と仲直りし、」とは、神の方を見ているつもりのわたしたちに、方向転換しなさいと言っているのだと思

礼拝説教1月3日

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「律法に込められた思い」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書5章17ー20節  クリスマスの喜びの内に新しい年を迎えました。神から与えられた 「律法」 を心新たに受け取り直し、この年を始めたいと思います。当時、人々は 「律法」 に苦しめられていました。自らを 「義」 (一般的な「正しさ」ではなく、律法を行うことによって神に「正しい」と認められる=義)とするファリサイ派や律法学者たちは、律法の一点一画も疎かにすることなく守っていることを誇り、それを人々にも要求し、守れなければ、信仰者失格というレッテルが貼られました。その為、律法は耐えられない重荷となっていました。そこに主イエスが登場します。人々は、主がこの律法を廃止し自分たちを救ってくれると思いました。しかし、主は言うのです。 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」 。どうしてでしょう。  最も苦しめられていた律法の一つは「十戒」の第四の戒め、安息日の戒めです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ…いかなる仕事もしてはならない」。休めという戒めです。しかし、自発的に向き合うことが出来れば良かったのですが、律法学者たちによって何が「仕事」であるかの定義づけが始まりました。結果、あらゆる事が禁じられ、日々の仕事に追われる者、羊飼いたちなど、多くの人々が守れない戒めとなりました。休めるのであれば、もちろん休みたい。しかし、休めないが為に神の前に正しくない=罪人といわれる。当時の人々は苦しんでいました。  しかし、現代は律法に苦しめられることはありません。それは今が神を畏れる心を失った時代と言える時代だからです。けれども、それは同時に、人が見つめるべき規範を失った時代であるとも言えます。人はそれを「自由な時代」と言うかも知れませんが、実際は糸の切れた凧のような不安定な時代であるとも表現できます。確かなもの、安心して着地できる場所を誰もが求めている時代です。ある人は人生を導いてくれる尊師を求め、それがカルトであっても盲信するかも知れません。あるいは、他人の言う「これを得れば幸せ」という言葉を信じ、自分の本当の思いはどうあれ、それを得ると世間に顔向けできると言って安心するかも知れません。けれども、どれも間違った価値観、偽物の律法で