礼拝説教1月17日



「律法に込められた神の眼差し」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書5章27ー32節

 山上の説教の言葉を聞いていると、「律法」(十戒)とは、単なる規則ではないことに気がつかされます。規則として読めば、「私は、これは守れている。これは守れていない」と自己評価の物差しとなります。しかし、それは神を信じていなくてもできることです。律法は単なる規則ではありません。一つひとつの言葉に神の眼差しが注がれています。喜びの眼差し、悲しみの眼差し。それを受け止め、信じることなしでは、律法を通して神を知り、また自分を知ることはできません。
 主イエスは言います。「あなたがたも聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。端的に言えば、姦淫とは結婚生活の破壊です。神が結ばれた関係を破壊するな。それを主イエスは、それは、あなた方も聞いているでしょう、と言われました。これは、規則として知っているでしょうということです。そして、「しかし、わたしは言っておく」という言葉で続けます。「この言葉の中に、どんなに神の悲しみが込められているのか言っておく」ということです。 
  ここで主は「心の中」のことを指摘されます。しかし、心の中のことまで言われてしまうと、もう意味を為さない戒めになってしまうような気がします。誰もが守れるようで誰も守れない。だから、ある意味、「はいはい」と言って片付けられてしまう戒めに聞こえます。しかし、これも規則としての受け取り方なのだと思います。
 神は、どうして心の中にまで踏み込んで来られるのでしょう。それは、所詮、心の中のこと、小さな事だと私たちが感じ、片付けてしまう所にこそ、「根」がもう伸びているからです。「・・・もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。とても大袈裟に聞こえます。しかし、それは神の眼差しと、私たちの感覚との温度差なのだと思います。もし身体の中に癌が見つかったら、すぐに病院に行きます。そして切ったら治ると言われれば、「今すぐに切ってください」と言うと思います。命の方が大事だからです。同じ思いで神はご覧になっています。
 この戒めは結婚の破壊にだけは留まらない戒めです。「みだらな思いで」という言葉は「欲するために」と訳し代えることが出来ます。つまり、「誰でも、欲しいと思って他人を見る者は」ということです。自分の家族と別の家族を比べて「欲しい」、羨む思いで見る者は姦淫の罪の中にあるということです。どうして、他の家族を羨むことが問題になるのか。それは神が与え、結び合わされた、愛し、愛される関係以外の所に、それを求め始めているからです。与えられた関係を感謝することなく、自分の理想という偶像を追い求めているからです。神が与えられた関係といえば夫婦関係に留まりません。学校や職場、教会の人たちも神が与えてくださった場所、関係です。それも同様です。 
 ヨハネ福音書8章には姦淫の現場を捕らえられた女性の話があります。姦淫の罪は石打ち刑でした。人々は、その是非を主イエスに問い、主は答えます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。最初は誰もが石を投げる権利が自分にはあると思っていました。嘘などの小さな罪は犯したことあるが、自分は姦淫という大きな罪は犯していない。しかし、主イエスは、姦淫も小さな嘘も同じ。私たちの方で罪の大小があろうとなかろうと神の悲しみは同じと言われたのです。そして主は女性に言います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。なぜ、主は罪に定めないと言えるのか。この女性の罪を主が担うからです。あなたの罪を、わたしが負う。十字架の上でわたしが裁かれる。だから、あなたは行きなさい。
 理想と違うと言って相手にがっかりすることがあります。その時、いつも私たちは自分は罪人ではないかのような顔をしています。自分こそが、主に担われるべき、悲しみの存在であるのに。律法には、神の悲しみの眼差しが現れています。律法がなければ、それを知ることも出来ませんでした。そして、主が新しい契約・新しい律法と言われた十字架の死は、その私たちを担おうとされた神の思いの形です。主が悲しみの存在である私たちを背負ってくださるから、前に進むことが出来ます。相手にがっかりするとき、主が担ってくださったように、互いに担い合う歩みを重ねたいと思います。