礼拝説教1月10日



「一番最初に仲直り」 小松美樹 伝道師
マタイによる福音書5章21ー26節

 5章から始まった、主イエスの山上の説教と呼ばれる箇所を読んでいます。主イエスは旧約聖書で与えられた律法は、主ご自身によって完成するのだと言われます。十戒の第六戒「殺してはならない」はよくわかります。しかし、腹を立てたり、人を罵る言葉を言っても裁かれると言われました。だから、礼拝を捧げる前に和解をしなさいというのです。争いごとを隠したままで、礼拝で祈る「主の祈り」の「我らがゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ。」とは祈れないのです。
 わたしたちは、赦すような関係になる前に、怒ることや、イライラする苦手な相手とは距離をとり、うまく付き合っていこうとします。けれどもそれは、徐々に相手に無関心になり、関係が壊れることへと繋がります。また、法に定められているものを守っていれば、処罰されません。よからぬ事を考えても、行動に移さなければ犯罪にはならないはずです。それならば個人的な問題であって、自分自身で判断することができます。考えるだけなら咎められるはずのない、そのことにも、神との関係の中では、そのままにしておくことができないのです。怒りを覚えているとき、神を覚えているでしょうか。主イエスの赦しを覚えているでしょうか。そうゆうことが、抜け落ちて、相手を非難しているのではないでしょうか。
 聖書で言う罪は、人の内側から湧いてくる「私が神になりたい」という思いや「私に命令する神なんていらない」という自分以上のもの、存在、権威を認めない思いを言います。小さな子どもでも、誰に教わるのでもなく、兄弟や人をねたむ思いが出てきます。何の罪もない人などいないと聖書は言います。十字架の上で主イエスが死なれたのは、すべての人の赦しのためであり、わたしたちと神との関係の執り成しのためでした。そうして赦されて生きるわたしたちのいのちは、怒りを抱えて生きるような、制限のない縛りや虚しさの奴隷になってはいけないと言うのです
 礼拝への招きに応えるように、わたしたちは神の下に集まります。でも、赦せない人、排除した人がいる、そのことを今、礼拝の中で聞く、神の言葉によって思い出します。「まず行って兄弟と仲直りし、」とは、神の方を見ているつもりのわたしたちに、方向転換しなさいと言っているのだと思います。礼拝によって神の方へと向き直ることが回心です。けれども、神の方を向いたつもりになっていて、実は全然変わってないよと言われているのだと思います。礼拝に来てもまだ自分の方ばかり見ているんじゃない?仲直りしていない相手がいることを知り、仲直りできない自分を思い出しなさい。まだ赦せていない人がいるよ。さぁ向きを変えて仲直りしていらっしゃい。そのような気づきが与えられているのだと思います。
 実際に和解できないかもしれません。今後も腹を立てないなんてできないでしょう。けれどもその思いに心が支配される時、わたしたちを引き戻そうとしておられる主イエスを礼拝で思い起こしてください。「わたしがきたのは…完成するためである」(5:17)。これはより厳しい戒めのためではなく、愛の行いによって、完成し、愛を積み上げる行いをしなさいと言われているのです。
 主イエスの十字架がそうであったように、守るべきものがあるから、不満に思うことも負うことができるのです。罪のない主イエスが、人を守るため、わたしたちを守るために、言い訳せずに、反感を持つ群衆に負けに行ったのです。相手を思うことができるとき、負けておこうと思えるのです。そして、赦すというのは、受け入れるということです。イエスは人々の怒りを受け入れました。後に復活され、新しい命を与えられます。わたしたちも同じです。選ばれない経験や聞き入れられない経験、また愛されないという経験を誰もがします。けれどもその後、相手を憎んで生きる、そのような道から、主の道である赦しの道を歩み始めるのです。  わたしたちが、ひどく傷ついたとき、自分だけで悩むなら、憎しみと赦せない思いしか心の中から出てこないかも知れません。すぐには赦せないですし、受け入れられないかもしれません。
 それでも一歩を踏み出せたとき、新しい命、新しい生き方が与えられます。  主は、十字架の上で、わたしたちが負うべきものすべてを背負われました。主の命をもって、赦されたわたしたちの命は、その愛を知ったとき、赦さない者として生きるのではなく、赦す者として生きるようにと召されているのです。