礼拝説教1月24日



「言葉の真実」石丸 泰信 牧師
マタイによる福音書5章33ー37節

 「誓い」という言葉は日常的ではないかも知れません。しかし、教会は大切にしています。結婚式での誓約、洗礼式、就任式、転会式が教会にはあります。そして、その時、私たちは進んで、神の名によって誓約をいたします。しかし、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない」と主イエスは言われます。どういうことでしょうか。 
 そもそも誓いというのは、私たちの行う約束を保証する言葉なのだと思います。だから、神の名によって誓い、神の名を汚さぬよう、守ることを約束するということです。ただし、約束の際、問題となるのは、自分の名誉だけでありません。神の名誉に掛かっているということです。けれども、主イエスは続けて言われます。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である・・・」。どういうことでしょうか。 
 多くの学者は、この言葉の背景には十戒の第三戒があると見ています。「神の名をみだりにとなえてはならない」です。この戒めを当時、神の名を軽々しく、自分の利益のために使ってはならないという意味で受け取られました。そのため、神の名を持ちだして誓うのではなく、神がおられる「天」や、神が造られた「地」が神の名の代用として使われました。十戒を重んじる敬虔な信仰の態度が、この言葉遣いにあるわけです。しかし、主は言われます。「天にかけて誓ってはならない」。昔の人々は、神の名を避ければ、良いと思っていましたが、主は、神の名を他に言い換えても同じだと言われたわけです。 
 私たちの行うこと、一つひとつに誓いを立てて有言実行して行くことは一件、誠実そうに見えます。しかし、そのどれもが上手くいくわけではないことを私たちも知っています。誓いを果たすことが第一になった人は、恐らく、その失敗を人のせい、何かのせいにするでしょう。立てた誓いを守るために、嘘をつき、ごまかし、人のせいにしていては、そこに本当の誠実さは無いのだと思います。主イエスが「一切誓いを立ててはならない」と言われるとき、誠実さとは「あなたが立てた誓いに生きることではない」ということです。
 マタイ福音書26章には「誓い」を立てるペトロの姿が描かれています。主イエスが、これから自分は十字架に掛かると言われたときの出来事です。主イエスは、誰もが自分を見捨てて逃げて行ってしまうと弟子たちに告げました。その時、ペトロは誓って言います。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。けれども、ペトロは夜が明けぬ内に、3度、「主イエスのことを知らない」と言ってしまいます。誓ったときのペトロには、嘘は無かったと思います。しかし、人の誓いはいかに脆いことかとも思います。 
 面白いことにキリストの教会は、このペトロから始まりました。死ぬ覚悟ですと誓った誓いを捨てたペトロから端ましました。彼は私たちと同じように脆く愚かな人間です。そして、彼は私たちと同じように、主に赦され、受け入れられた人間です。そこに教会は始まりました。 
 ペトロは、3度、主を知らないと言った後、それが主の予告通りであったことに気がつき、泣きます。この涙は何か。自分の愚かさへの涙かも知れません。しかし、何よりも、主が予告できるほどに、自分の愚かさを知っていたこと。にもかかわらず一番弟子だと認めていてくれたこと。その主の眼差しへの涙です。自分が誠実な人間だから愛してくれていたのでは無い。誓いすら果たせない自分を、なお愛してくれていたことに気がついた涙です。 
 今日の聖書には、不思議な言葉があります。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」「然り」というのは「はい(yes)」、「否」は「いいえ(No)」ということです。いずれも応答の言葉です。受動的とも言えます。それに対して誓いの言葉は能動的な言葉です。自分の外の言葉(神の言葉)には、返事が求められます。そこに生きよということです(ヨハネ福音書21:15-を見てください)。
 私たちは朝、聖書を開き、そこにある言葉に「はい」と答えて出かけます。けれども、家に帰ってきて、もういちど、この言葉の前で答えるわけです。「いいえ、できませんでした」。そして、できない自分を助けてくださいと祈ります。果たせない自分をご存じで、それでも受け入れてくれている方に、信頼して、答えていきます。「はい」あるいは、「いいえ」と言っても、批判されません。批判されないからこそ、人は、真実に生きることが出来ます。批判を恐れてごまかさずに生きることができる。主は、私たちの為ならば、命さえ差し出すと言われ、事実、そうされた方です。この方の言葉の前では、偽りのない真実の心で、自分の本当のことを答え、祈ることが出来ます。