礼拝説教1月3日



「律法に込められた思い」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書5章17ー20節

 クリスマスの喜びの内に新しい年を迎えました。神から与えられた「律法」を心新たに受け取り直し、この年を始めたいと思います。当時、人々は「律法」に苦しめられていました。自らを「義」(一般的な「正しさ」ではなく、律法を行うことによって神に「正しい」と認められる=義)とするファリサイ派や律法学者たちは、律法の一点一画も疎かにすることなく守っていることを誇り、それを人々にも要求し、守れなければ、信仰者失格というレッテルが貼られました。その為、律法は耐えられない重荷となっていました。そこに主イエスが登場します。人々は、主がこの律法を廃止し自分たちを救ってくれると思いました。しかし、主は言うのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。どうしてでしょう。
 最も苦しめられていた律法の一つは「十戒」の第四の戒め、安息日の戒めです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ…いかなる仕事もしてはならない」。休めという戒めです。しかし、自発的に向き合うことが出来れば良かったのですが、律法学者たちによって何が「仕事」であるかの定義づけが始まりました。結果、あらゆる事が禁じられ、日々の仕事に追われる者、羊飼いたちなど、多くの人々が守れない戒めとなりました。休めるのであれば、もちろん休みたい。しかし、休めないが為に神の前に正しくない=罪人といわれる。当時の人々は苦しんでいました。
 しかし、現代は律法に苦しめられることはありません。それは今が神を畏れる心を失った時代と言える時代だからです。けれども、それは同時に、人が見つめるべき規範を失った時代であるとも言えます。人はそれを「自由な時代」と言うかも知れませんが、実際は糸の切れた凧のような不安定な時代であるとも表現できます。確かなもの、安心して着地できる場所を誰もが求めている時代です。ある人は人生を導いてくれる尊師を求め、それがカルトであっても盲信するかも知れません。あるいは、他人の言う「これを得れば幸せ」という言葉を信じ、自分の本当の思いはどうあれ、それを得ると世間に顔向けできると言って安心するかも知れません。けれども、どれも間違った価値観、偽物の律法です。
 だからこそ、主は言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」。人々は思っていました。主イエスが、今の苦しみから解放してくださるに違いない、と。しかし、主は言うわけです。律法を廃止して糸の切れた凧のようにするために来たのではない、と。
 人々は律法を誤解していました。律法は人の前ではなく神の前に守るものです。宗教改革者のJ・カルヴァンは「コーラム・デオ(神の御前に)」という言葉を何度も言いました。そして律法の根幹である十戒はコーラム・デオを大切なこととして見ています。十戒の1~4の戒めは神との関係の戒め。5~10の戒めは隣人との関係の戒めです神との関係が土台、大前提です。なぜか。神の視点を見失った人は、人が見てさえいなければなんでもするからです。何をしても人にバレなければ良い。何を言っても人が聞いてさえいなければ良い。神は人の心の中までご存じのごまかしの効かない方です。故に1-4の戒めを忘れると人の目を気にした上辺だけの戒めになります。主イエスは、それを教え、誤解なく完成するために人となって世に来られました。律法には、親が子に、こう生きて欲しいと願うものと同じ、神からのわたしたちへの思いが詰まっています。
 どんな思いか。それを端的に言い表したのは創世記に登場するエバです。エデンの園の木の実を巡ってエバは神と約束をします。その時、なぜその実を食べてはいけないか、エバはその理由をこう言います。わたしたちが「死んではいけないから」。死んではいけない。これが律法に込められた神の思いです。後にエバは約束を破ります。その時、確かに生物学的には死にませんでした。しかし、神との関係が死にました。彼らは神の眼差しを恐れ始めたのです。隣人との関係も死にました。互いに裸であることを恥じます。つまり、人の眼差しを信じることができなくなったのです。関係の死です。だからこそ、そのまま律法を廃止してしまっては、関係も死んだまま。主は律法を回復し完成しに来られました。
 主は「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われます。これは律法学者と競い合えという事ではありません。むしろ、アダムとエバのように最も小さい掟の一つさえ神の前に守ることの出来ない自分を悲しみ、しかし、その罪が赦されるために、十字架の上で、自分が受けるべき代償を主が代わって命を差し出して受けてくださった恵みを受け取り、信じることです。神の御前に赦された罪人として生き始めたとき、自分の隣人との関係も息を吹き返してきます。その時、神は「義」だと仰る。新しい年、律法の一つひとつに込められた神の思いを見つけ、その思いを喜ぶ喜びの中を生きたいと思います。