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礼拝説教11月29日

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「神の計画を待つ」 小松 美樹 伝道師 ルカによる福音書1章26ー38節     教会の暦では、アドヴェントから新しい一年が始まります。 日本語では「待降節」と言います。主イエスのご降誕を「待つ」季節です。語源は「待つ」よりも「来る」という意味があります。神の子イエス・キリストが救い主として私たちのところに 来て くださった。その特別な記念の日を覚えて過ごしながら、同時に教会はイエス・キリストが 再び来てくださる 、神の国の完成の時を待ち望んで過ごしています。    クリスマスの出来事は、静かに、まだ幼さの残る少女のお腹に救い主が宿るところから始まりました。思いもかけない程、ゆっくりと時間をかけて、人の手に守られながら始まりました。    マリアは13歳くらいであったと考えられています。普通の女の子で婚約をして、これからの思い描いていた将来があったと思います。けれども、突然「あなたはこれからこう生きていきなさい」と言われてしまうのです。自分の身に起きたらどうでしょう?…親に、婚約者に、きっと理解されない。学校では噂が広まって、行かれなくなるかもしれない。    マリアの状況は最悪と言えるほど悪かった。村は500人くらいの小さな村であったと考えられています。結婚前に妊娠することは重罪でしたので、恐らく村中に噂は広まり、親戚中からも後ろ指刺され、友人も離れたことでしょう。そんな状況を目の前にしながら、マリアは神から恵みをいただいたのだと告げられました。    誰でも自分が思い描く毎日や、未来であったら、嬉しいと思います。自分の思いが叶えば恵みだと思い、邪魔するものには嫌な気持ちになり、それが無ければ良いのにと思うかもしれません。けれども自分が思い描くものが最も良いものだと誰がわかるでしょう。時が満ちて、願いが叶った。時が満ちて、祈りが聞かれた。こう語ることができる時は「良い時」を思い浮かべていることが多いと思います。けれども、マリアにとっては、「なぜ今なの?」という時でした。マリアはこの日、自分の思い描いていた未来が崩されました。それでも、「 お言葉どおり、この身に成りますように。 」と応えまし

礼拝説教11月22日

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「地の塩、世の光」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書5章13ー16節   「あなたがたは地の塩である。…あなたがたは世の光である」 。これは主イエスの周りに集まってきていた群衆や弟子たちに向かって言われた言葉です。つまり、わたしたちのような人たちに向かって主は言われました。伝えたいことは端的に言えば「あなたがたは大切だ。代わりのきかない存在だ」ということです。不思議な伝え方です。他にも表現の仕様があると思います。「あなたは塩だ」と言われたら、一体どれだけの人がピンとくるかと思うからです。どうしてピンとこないのか。普段の生活で「塩」や「光」に対してまったく関心を寄せていないからです。大切か否かと聞かれれば、もちろん大切です。けれども、あって当たり前。だからいちいち気に留めることもしないわけです。しかし、だからこそ主イエスは、この言葉遣いを選んで仰ったのでしょう。あって当たり前と思うわたしたちに向かって、その大切さに、もう一度気がつかせるために。わたしたちは味わいのある世界、光のある世界を当たり前の様に生きていますが、主は味わいのない世界、光がなく、ただ腐っていく世界をご存じなのだと思います。そして、その「塩」と「光」とは、つまり「あなたがた」なのだ、と。  この言葉は嬉しい反面、荷が重い言葉です。当時「塩」は貴重で有用で腐敗から守る。そこから神の言葉である「律法」を象徴していました。「光」も世に来られた暗闇を照らす光としてのキリストを指すにふさわしい言葉です。その言葉遣いを主はわたしたちに向けて言われたからです。けれども、気をつけなければいけないことは、主は、命令や願いとして「地の塩になりなさい」と言われたのではなく 「地の塩である」 と言われたことです。これは宣言です。7章まで続く山上の説教には、神の眼差しがよく分かるように描かれています。神の目から見たわたしたちの姿は「地の塩…世の光」なのです。そして、山上の説教の中で続く命令の言葉は、わたしたちが大切な存在だからこその神の願いです。  「自分は大切な存在だ」という思いは自分の中からは出てこないものだと思います。もちろん、自分は高価で尊い存在だと自称している人は多いと思います。けれども、どうして、そう思えるようになったのかと言えば、やはり誰かに言われてのことではないかと思うのです。神

礼拝説教11月15日

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「あなた方は幸いだ」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書5章1ー12節   合同礼拝を捧げています。マタイ福音書5章から「山上の説教」が始まります。ある人は、これをメシアとしての就任演説だと言います。主イエスはメシア(救い主)として、まず3章で洗礼を受けられ、4章ではサタンの誘惑を。これはメシアとしてのアイデンティティが問われる試練でした。そして最初の弟子を招き、いよいよ説教が始まります。就任演説をする際、ぜひ、これだけは伝えたいということから始めると思います。これまでずっと心に覚えていたこと、これは忘れないで欲しいと願っていることです。主の最初の言葉は、これでした。 「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる…」 。  主イエスは、あなたは幸いだと言われます。わたしたちは幸いでしょうか。きっと悲しいことがあった人は、幸いではないと答えると思います。ここに悲しい人はいなかったのでしょうか。いや、きっと居たと思います。けれども、主イエスは言われるのです。 「悲しむ人々は幸いである」 。どういうことなのでしょう。  幸せって、第一には悲しみに遭わないことです。お祭りやお参り、お祓いのその目的は悲しいことがありませんように、という願いのためです。悲しいこと、嫌なことに出会わず、幸せでありますように。幸せはいつも悲しみの反対側にあります。 しかし、実際、幸せと悲しみは隣り合わせです。そして、わたしたちが感じる、悲しみのない幸せは、突然のことであっという間に吹き飛んでいってしまうものばかりです。事故や病気、たった一つの予定が狂ってしまっただけで吹き飛んでいってしまいます。では、自分の人生がすべてわたしの思い通りで、人生が順風満帆という人以外、幸せではない。幸せにはなれないのでしょうか。  そうではないと主イエスは言われます。 「悲しむ人々は幸いである」 。この言葉を通して、主は、決して吹き飛んだりしない、どこから見ても幸せには見えないような悲しみや迫害の中にあっても、なお失われることのない幸せがあること。その中に、もうわたしたちが置かれていることを伝えようとしているのです。  どうして 「悲しむ人々は幸いである」 と言えるのか。それは主が今、目の前に居るからです。わたしたちの悲しみ

礼拝説教11月8日

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「福音王国!」 小松美樹 牧師 マタイによる福音書4章23ー25節  4章の最後を読みました。先週の箇所で、弟子を招いた主イエスが、ガリラヤ中を巡り回り、宣教活動を行った。という、箇所からのまとめの文章です。もしマタイ福音書に目次がついているとしたら、今日の聖書は第1章の終わりであり、劇ならばここで第一幕降りるような場面です。このまとめに書かれた、その具体的な内容はというのは5章から始まります。     主イエスの宣教活動は、大きく3つのことが記されています。「教え」、御国の福音の「宣べ伝え」、民を「癒し」です。  主イエスはわたしたちのもとに来て、会堂で「教え」られました。人が思う愛や正しさではなく、神の愛と正しさを教えられました。また、知らされなければ見いだすことのできない神について「宣べ伝え」てくださいました。それは今の教会に託されている働きの1つです。そして、主イエスは正しいことを言い、教えるだけでなく、それを行動で示してくださいました。それが「癒し」の行為でした。「宣べ伝え」と「教え」があり、それを頭で理解するだけではなく、教えに並ぶ「癒し」が主イエスの救いの御業です。      病の回復を目の当たりにした人々や癒された人たちは、「イエスに従った」と書かれています。弟子たちと同じように、従った人々がいたことがわかります。ここには、従い行く弟子たちと群衆には区別はありません。弟子になることと、主イエスに従い歩むようになった群衆の歩みも、同じ主に従い行く「召命」として記されています。    「病気や患いをいやされた。」人々、またその評判を聞きつけた大勢の群衆が、主イエスに従いました。病気になったら医者を必要とします。しかし、病気を治してくれた医者に従うことはなかなか無いと思います。病気が治ったらやりたかったことが叶う。自分の望んでいた道を歩み始めたいはずです。けれども、「病気」と「患い」を癒されたことが、主に従い歩むようになる人生の転機になりました。「患い」は「弱さ」の意味も持つ言葉で記されています。「弱さ」は、人の誰しもが持つものだと思います。苛立ちも、虚しさも、諦めのような思いにも襲われる時があると思います。そうした私たちの飲んでも飲んでも満たされない心の渇きのようなものが、主イエスによって癒されたのです。    旧約

礼拝説教11月1日

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「神と共に歩いた人たち」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書4章18ー22節   信仰の先達たちを覚え、礼拝を捧げています。お一人おひとりの歩みがどのようなものであったか。それはそれぞれに違うものであったと思います。しかし、共通する点もあります。誰もが「主イエスに呼ばれてここに」ということです。主の最初の弟子たちもそうでした。主イエスは 「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になっ」 て言われます。 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」 。すると 「二人はすぐに網を捨てて従った」 。このように弟子たちと主イエスとの出会いは主の眼差し、招きによって起こりました。  それにしても、彼らはどうして 「すぐに網を捨てて従った」 のか。マタイ福音書は理由を伝えていません。けれども、分かる気がします。理由はあるのだけれども上手く言葉に出来ないのだと思います。わたしたちも、ありとあらゆる宗教を並べて比べ、キリスト教を選び、日本中の教会に足を運んだ上で向河原教会を選んだというのであれば、その理由を説明できるかも知れません。しかし、誰もそういうことはしていないと思います。むしろ、家族が教会に通っていたとか、入学した学校がミッション・スクールだった、家の近くに教会があった、あるいは留学先で迎えてくれた家族が、職場が、結婚した相手がキリスト者だったとか。悩んだとき、かつての恩師が教会に行っていることを思い出して…など。自分の意志で選んだというよりも、誰もが偶然のようなきっかけを通して教会に導かれたのではないかと思います。だから、上手く説明できない。それは弟子たちも既に眠りに就いた方々も同じです。そして教会は、その不思議に見える巡り合わせを偶然の出来事という風には理解しません。主が招いてくださったと信じます。眠りに就いた方々のキリスト者としての歩みや、今のわたしたちの信仰生活は主の招きによって始まったと信じます。  主の招きを「召命」と言い表すことがあります。牧師や伝道師に対して使われることが多いですが、そのような限定はないのだと思います。「召命」を別の角度から見てみると「福音」です。神から自分へ、この世界での役割、使命を与えられているということだからです。この