礼拝説教11月22日



「地の塩、世の光」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書5章13ー16節

 「あなたがたは地の塩である。…あなたがたは世の光である」。これは主イエスの周りに集まってきていた群衆や弟子たちに向かって言われた言葉です。つまり、わたしたちのような人たちに向かって主は言われました。伝えたいことは端的に言えば「あなたがたは大切だ。代わりのきかない存在だ」ということです。不思議な伝え方です。他にも表現の仕様があると思います。「あなたは塩だ」と言われたら、一体どれだけの人がピンとくるかと思うからです。どうしてピンとこないのか。普段の生活で「塩」や「光」に対してまったく関心を寄せていないからです。大切か否かと聞かれれば、もちろん大切です。けれども、あって当たり前。だからいちいち気に留めることもしないわけです。しかし、だからこそ主イエスは、この言葉遣いを選んで仰ったのでしょう。あって当たり前と思うわたしたちに向かって、その大切さに、もう一度気がつかせるために。わたしたちは味わいのある世界、光のある世界を当たり前の様に生きていますが、主は味わいのない世界、光がなく、ただ腐っていく世界をご存じなのだと思います。そして、その「塩」と「光」とは、つまり「あなたがた」なのだ、と。
 この言葉は嬉しい反面、荷が重い言葉です。当時「塩」は貴重で有用で腐敗から守る。そこから神の言葉である「律法」を象徴していました。「光」も世に来られた暗闇を照らす光としてのキリストを指すにふさわしい言葉です。その言葉遣いを主はわたしたちに向けて言われたからです。けれども、気をつけなければいけないことは、主は、命令や願いとして「地の塩になりなさい」と言われたのではなく「地の塩である」と言われたことです。これは宣言です。7章まで続く山上の説教には、神の眼差しがよく分かるように描かれています。神の目から見たわたしたちの姿は「地の塩…世の光」なのです。そして、山上の説教の中で続く命令の言葉は、わたしたちが大切な存在だからこその神の願いです。
 「自分は大切な存在だ」という思いは自分の中からは出てこないものだと思います。もちろん、自分は高価で尊い存在だと自称している人は多いと思います。けれども、どうして、そう思えるようになったのかと言えば、やはり誰かに言われてのことではないかと思うのです。神に、あるいは家族や友だちに、あなたは大切だと言われ、それを受け止め、信じることが出来たからこそ、今、自分を大切な目で見ることが出来る。反対に言えば、自分が大切な存在で、いなくなってしまうと世界が少し暗くなってしまう存在だと思えない人は、何をすれば価値が上がるのか。何をしてもムリです。ただ、大切だという言葉を受け止めて、信じるしかないのだと思います。人は大抵、塩や光のように、失ってからしか大切さに気がつかないものですが、神は、今、失うよりも先に、その高価さに気がついて欲しいと願っているのです。 
 そして、主は「あなたは」ではなく「あなた方は地の塩…世の光」という言い方をされました。ここに幾つかの意味があると思います。第一には「あなたがた」という言葉遣いは自分が高価な存在だと気がつけた人は、近くに居る、どうにも価値が低く見える人も、神の目には大切な存在に映っていることに気がつかせます。第二には「あなたがた」という言葉遣いで教会をイメージしています。「塩に塩気がなくなれば…何の役にも立たず…投げ捨てられ…」といいます。塩気を失うとは「愚か」、「駄目」になったらという意味です。塩が役目を果たすとき消えます。他の食材の味を深めて姿を消します。謂わば、塩は他を指し示す存在です。それなのに塩が自分を指し示すことをし出したら、それは愚かだというわけです。教会も、他者のためではなく、自分のために立ち続けることをし始めたら、それは何の役に立とうか、と。また、今の時代、塩では人気が出ないから他の何かになろうといって、塩が塩であることをやめて、自分を偽って別の何かになろうとすれば、それは愚かだと。両方とも、教会やわたしたちのことを失いたくないが為の主の言葉です。
 そして、「あなたがた」という言い方の、もう一つの側面は「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」といわれていたところの「あなたがた」です。祈りや真実のために悩み、主の取り扱いを受けた人。その姿を見て主は「地の塩…世の光」と言います。神に励ましを受ける人たち、それがここでいうあなたがた。わたしたちです。
 ある方が職員礼拝で聖書の言葉を取り次いだそうです。自分を偽って何者かになって取り次ぐことは出来ません。よく見せようとしても聞いた言葉しか出ては来ません。大変な務めです。いずれにしても、出席した多くの教員は喜んだそうです。「そんなに子どもたちのために祈ってくれていた人がいたなんて」、と。わたしは、その話を聞いて嬉しくなりました。同時に、きっと皆、聞いた言葉も、誰の奨励であったかもいずれ、忘れてしまうのだろうなとも思いました。しかし、その日、教員たちを照らした光は、誰かの中で実を結び、奨励者と同じ眼差しで子どもたちを見、祈る人になるのだろうな、と。
 掲示板の説教題を見て、いつも思います。その日が終われば、役目を終えるものです。明日には炉に投げ込まれる野の花のようです。けれども、その務めは「地の塩」です。塩は完成したとき姿を消します。人の手仕事もそうです。見えなくなる。けれども、それが毎日を少し良い方に動かしています。教会の花壇も掃除も、あって当たり前。けれども、それが教会を照らします。家庭でも職場でも、そういうことばかりです。誰もが地の塩、世の光に照らされていますし、自分で担う地の塩としての手仕事のために励ましを神に求めています。「あなた方は地の塩…世の光」という言葉は真実です。わたしたちは、それを受け取り、信じるだけです。