礼拝説教11月1日



「神と共に歩いた人たち」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書4章18ー22節

 信仰の先達たちを覚え、礼拝を捧げています。お一人おひとりの歩みがどのようなものであったか。それはそれぞれに違うものであったと思います。しかし、共通する点もあります。誰もが「主イエスに呼ばれてここに」ということです。主の最初の弟子たちもそうでした。主イエスは「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になっ」て言われます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。すると「二人はすぐに網を捨てて従った」。このように弟子たちと主イエスとの出会いは主の眼差し、招きによって起こりました。
 それにしても、彼らはどうして「すぐに網を捨てて従った」のか。マタイ福音書は理由を伝えていません。けれども、分かる気がします。理由はあるのだけれども上手く言葉に出来ないのだと思います。わたしたちも、ありとあらゆる宗教を並べて比べ、キリスト教を選び、日本中の教会に足を運んだ上で向河原教会を選んだというのであれば、その理由を説明できるかも知れません。しかし、誰もそういうことはしていないと思います。むしろ、家族が教会に通っていたとか、入学した学校がミッション・スクールだった、家の近くに教会があった、あるいは留学先で迎えてくれた家族が、職場が、結婚した相手がキリスト者だったとか。悩んだとき、かつての恩師が教会に行っていることを思い出して…など。自分の意志で選んだというよりも、誰もが偶然のようなきっかけを通して教会に導かれたのではないかと思います。だから、上手く説明できない。それは弟子たちも既に眠りに就いた方々も同じです。そして教会は、その不思議に見える巡り合わせを偶然の出来事という風には理解しません。主が招いてくださったと信じます。眠りに就いた方々のキリスト者としての歩みや、今のわたしたちの信仰生活は主の招きによって始まったと信じます。
 主の招きを「召命」と言い表すことがあります。牧師や伝道師に対して使われることが多いですが、そのような限定はないのだと思います。「召命」を別の角度から見てみると「福音」です。神から自分へ、この世界での役割、使命を与えられているということだからです。この世界での役割や人生の目的、自分の使命とは何か。それは人生を通しての召命です。仕事の定年や親しい人や家族の死によって消えてしまう人生の目的というのなら、それは違うと思います。もしも途中で無くなってしまう使命なのであれば、その後は糸の切れた風船のように目的もなく、ただ漂う生き方になってしまいます。主の「わたしについて来なさい」という召命は自分の生涯どころか死を超えていく使命、役割への招きです。宗教改革者のルターは「我ここに立つ」と言い、死を恐れず福音主義に立ち続けました。パウロもそうです。「そうせずにはいられないのです」、「そうしないとわたしは不幸なのです」と言い、自らの存在をもって福音を伝え続けました(Ⅰコリント9章)。
 もちろん与えられる使命とは一人ひとり違います。「人間をとる漁師」という表現はユニークです。漁師でないわたしには全然ピンときません。おそらく彼らが漁師としての経験、自覚があったからこその言葉です。もしも彼らが大工であれば、「人を立て上げる大工にしよう」と主は言われたかも知れません。つまり、主に呼ばれてついて行くということは、一人ひとりの個性が無視されるということではないのです。しかし、共通する使命もあります。第一には祈ること。もしも、わたしたちが祈らなければ、一体誰が家族のため、職場のため、学校のために祈るのでしょう。祈りにどんな力があるか。それは励む人には分かります。そして、その中で自らの使命、目的、役割も示されるのだと思います。 
 また、召命は神から当てにされていることを意味します。わたしたちは信頼されています。だからこそ、神に役割を命じられる。しかし、とても果たせないと感じる方もあるかもしれません。その通りと思います。わたしたちには出来ません。だからこそ、主がなさる。主の招きの言葉を元のニュアンスに近く翻訳し直すと「わたしの後に付いてきなさい。そうしたら、わたしがしよう。あなたがたを人の漁師に」です。主は、「あなたはなれ」とは言いません。「わたしがしよう」と仰います。わたしたちは自分が何者かになれるかと心配しなくて良い。出来るか出来ないかを思って自分を見るではなく、主の後について行って自分がそうされることを信じて主の背中を見るだけです。
 主について行くとき、わたしたちは与えられた使命に足る人にされると聖書は言います。しかし、主に付いていくとは、立派なキリスト者として生きるということではありません。弟子たちも何度も間違え、逃げて行ったりもしました。その時、主との距離はだいぶ離れたでしょう。しかし、聖書は彼らを主に従う者たちと呼ぶのです。わたしたちも聖書を開きながら、時に近くに、時に遠くに主を感じながら歩みます。そうやって主に付いていったとき、その道は前人未到の道ではなく、かつて弟子たちや信仰の先達たちが歩いた道だと気がつくのだと思います。