礼拝説教11月8日



「福音王国!」 小松美樹 牧師
マタイによる福音書4章23ー25節

 4章の最後を読みました。先週の箇所で、弟子を招いた主イエスが、ガリラヤ中を巡り回り、宣教活動を行った。という、箇所からのまとめの文章です。もしマタイ福音書に目次がついているとしたら、今日の聖書は第1章の終わりであり、劇ならばここで第一幕降りるような場面です。このまとめに書かれた、その具体的な内容はというのは5章から始まります。
    主イエスの宣教活動は、大きく3つのことが記されています。「教え」、御国の福音の「宣べ伝え」、民を「癒し」です。
 主イエスはわたしたちのもとに来て、会堂で「教え」られました。人が思う愛や正しさではなく、神の愛と正しさを教えられました。また、知らされなければ見いだすことのできない神について「宣べ伝え」てくださいました。それは今の教会に託されている働きの1つです。そして、主イエスは正しいことを言い、教えるだけでなく、それを行動で示してくださいました。それが「癒し」の行為でした。「宣べ伝え」と「教え」があり、それを頭で理解するだけではなく、教えに並ぶ「癒し」が主イエスの救いの御業です。
     病の回復を目の当たりにした人々や癒された人たちは、「イエスに従った」と書かれています。弟子たちと同じように、従った人々がいたことがわかります。ここには、従い行く弟子たちと群衆には区別はありません。弟子になることと、主イエスに従い歩むようになった群衆の歩みも、同じ主に従い行く「召命」として記されています。
   「病気や患いをいやされた。」人々、またその評判を聞きつけた大勢の群衆が、主イエスに従いました。病気になったら医者を必要とします。しかし、病気を治してくれた医者に従うことはなかなか無いと思います。病気が治ったらやりたかったことが叶う。自分の望んでいた道を歩み始めたいはずです。けれども、「病気」と「患い」を癒されたことが、主に従い歩むようになる人生の転機になりました。「患い」は「弱さ」の意味も持つ言葉で記されています。「弱さ」は、人の誰しもが持つものだと思います。苛立ちも、虚しさも、諦めのような思いにも襲われる時があると思います。そうした私たちの飲んでも飲んでも満たされない心の渇きのようなものが、主イエスによって癒されたのです。
   旧約聖書には神の救いの業が始まる時を知らせる歌があります(イザヤ35:5-)。いよいよ神の救いが起きる、その時には、不治の病であった、目の見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。歩けなかった人が躍り上がり、口の利けない人が喜び歌う。そうした奇跡がつぎつぎ起こるのだ。それがしるしだと告げているのです。それは、あらゆる人への天の国の訪ずれであり、福音(良い知らせ)の到来です。
   それは今の教会の姿と重なると思います。マタイ福音書はここに「教会」という言葉は記さなくても、教会の本質・本来の姿が描かれているように思います。主に呼び集められて、教会に集うお一人お一人と、伝道者の主に従うことに、区別はありません。弟子がいて、主イエスに従い歩む者がいて、また大勢の人々が主イエスに従いゆくようになる。それはこの今の礼拝の姿です。
   天の国・福音王国には問題は起こらないのかというとそうではないと思います。疲れもするし、体の故障もあるでしょうし、辛いことがない世界がやってくるのではありません。けれども、疲れも、痛みも、苦難も、喜びに変わるということです。主イエスの愛ゆえに、その疲れも顧みられる。痛みも栄光の現れになる。苦難もその意味を知る。喜びの方へと再び立ち上がることが必ずできるようになるのです。
   主イエスは歩き、山を登り、疲れながらも、人々へ大きな声で「御国の福音」を呼びかけたことでしょう。汗を流しながら、大変なことであったと思います。けれども、それに勝る喜びがあった。人々の癒しと、それに応える人々が起こされた。そうして天の国が「今ここにきている」ということをみることができたのだと思います。ここ「教会」に主イエスが来てくださっているのです。「天の国は近づいた。悔い改めよ」は「礼拝が始まります。さぁ準備をしよう」という呼びかけです。天の国は近づき、神の御支配が始まる。さぁ、教会が始まる。さぁ礼拝が始まる!
  ここに、福音の王国が来たのです。何も心配はいらない。安心していい。あなたを愛していると言われる神の言葉が、今わたしたちの教会から響きわたっているのです。