礼拝説教11月15日



「あなた方は幸いだ」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書5章1ー12節

 合同礼拝を捧げています。マタイ福音書5章から「山上の説教」が始まります。ある人は、これをメシアとしての就任演説だと言います。主イエスはメシア(救い主)として、まず3章で洗礼を受けられ、4章ではサタンの誘惑を。これはメシアとしてのアイデンティティが問われる試練でした。そして最初の弟子を招き、いよいよ説教が始まります。就任演説をする際、ぜひ、これだけは伝えたいということから始めると思います。これまでずっと心に覚えていたこと、これは忘れないで欲しいと願っていることです。主の最初の言葉は、これでした。「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる…」
 主イエスは、あなたは幸いだと言われます。わたしたちは幸いでしょうか。きっと悲しいことがあった人は、幸いではないと答えると思います。ここに悲しい人はいなかったのでしょうか。いや、きっと居たと思います。けれども、主イエスは言われるのです。「悲しむ人々は幸いである」。どういうことなのでしょう。
 幸せって、第一には悲しみに遭わないことです。お祭りやお参り、お祓いのその目的は悲しいことがありませんように、という願いのためです。悲しいこと、嫌なことに出会わず、幸せでありますように。幸せはいつも悲しみの反対側にあります。 しかし、実際、幸せと悲しみは隣り合わせです。そして、わたしたちが感じる、悲しみのない幸せは、突然のことであっという間に吹き飛んでいってしまうものばかりです。事故や病気、たった一つの予定が狂ってしまっただけで吹き飛んでいってしまいます。では、自分の人生がすべてわたしの思い通りで、人生が順風満帆という人以外、幸せではない。幸せにはなれないのでしょうか。
 そうではないと主イエスは言われます。「悲しむ人々は幸いである」。この言葉を通して、主は、決して吹き飛んだりしない、どこから見ても幸せには見えないような悲しみや迫害の中にあっても、なお失われることのない幸せがあること。その中に、もうわたしたちが置かれていることを伝えようとしているのです。
 どうして「悲しむ人々は幸いである」と言えるのか。それは主が今、目の前に居るからです。わたしたちの悲しみを一緒に悲しんでくれる方が居るからです。主イエスの言われる「幸い」を別言すると「祝福」です。祝福とは、多面的な言葉ですが、その第一義は何よりも一緒に居るということです。
 いつも自分の傍に一緒に居てくれる人がいるのは嬉しいことです。けれども、実際には、悪いことをしたり、裏切ってしまったり、失敗したりしたら、あっという間に味方はいなくなってしまいます。けれども、主は、あなたが罪人でも悪者でも、ずっと傍にいると言われるのです。それが祝福。だから幸いです。例えば、学校の放課後、悪いことをした罰として一人で教室の掃除をさせられるとき、一人なら悲しい。悪いことをしてしまって、それだけでも、もう面目ないのに、怒られて、さらに一人ぼっちにさせられる。悲しみの極みです。けれども、そこに一緒に掃除するよという友だちがやってきたら、もう、そこはパラダイスになると思います。何年後かにきっと、その友だちに言うと思います。あの時、あなたが来てくれたから、あそこは楽園になったと。
 悲しいことがあると、わたしたちは泣きます。特に小さな子は泣くことが多いと思います。どうして泣くのでしょう。慰めて欲しいからです。けれども、2時間も3時間も泣き続けることは出来ないそうです。誰も来てくれないことが分かれば涙は涸れる。涙は慰めてくれる人が傍に居ることを知っているから流れ続けるのです。
 主イエスが「悲しむ人々は幸いである」と言い得るのは、主が悲しみの時、傍に居てくれるから。その涙を拭ってくださる方だからです。最近、一緒に暮らしていたウサギが死にました。最後の時、部屋の隅で倒れてキーキーと鳴きました。初めて聞く鳴き声でした。駆けつけて腕の中に迎えることが出来ました。わたしはとても悲しかったですが、同時に、この子の幸せになれたと感じました。そして、目には見えないけれども、いつも傍に居てくださる方に任せられるのは幸せなことでした。わたしたちは互いに幸せでした。
 ある友人の家を訪ねたとき、小さな子どもが患っている時でした。その子どもを寝かしつけた後、母親である友人は「代わってあげたい」と涙していました。きっと親というものは、子どもがどんなに悪さをしようと、このような眼差しでいつも見ているのだなと感じました。でも、代わることは出来ません。しかし、それをなさった方がいます。主イエスは、わたしたちが、全てを問われる終わりの時、捨て置かれることが無いように、わたしたちに代わって神に捨て置かれる死を死んでくださった方です。「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」という宣言は、その十字架の死への途上での言葉です。わたしたちが悲しみの中にあるとき、そのわたしたちと悲しみとの間に立ってくださる方の言葉であるからこそ、この言葉を真実として受け取ることが出来るのだと思います。